グッドニュース宣教会を一般教会が異端だという3つの理由
理由1.「悟り」を通して救われると言う
クォン氏が「罪の赦しを悟って」ユ氏が「福音を悟って」イ氏が「重生を経験し」パク氏が 「生まれ変わった体験」をしたというのは同じ意味で、「悟って生まれ変わると救われる」と言いながら、その救われた時刻 (霊的誕生日)を知るべきだと言い、肉的誕生日を覚えることのように霊的誕生日を記憶すると救われた証拠だと主張する。彼らの話によると肉的誕生日は親から教えてもらうが、霊的誕生日も 他人が教えてくれたときにわかる、という間違いが発生するようになった。そして、何よりも救いは神の恵みの中で信仰によるものであり、その悟りも信仰によるもので、悟りそのものが信仰のすべてになれない。それなのに、彼らは救いに関する、被動的な「悟り」自体が救われると主張をし、霊地主義的に誤って理解している。
理由2.悔い改めを続けて行うのは救われてない証拠だ
救われた人は悔い改める必要がないとし、悔い改めとは文字通り「悔いて改める」ことで、この世から悔いて、神へと改めたので、これ以上改める必要がなく、 すでに、過去、現在、未来の罪がすべて赦されたので、悔い改めを続けてすることは罪の赦しの確信がない証拠なので、救われていない地獄の子となる。それで、「主の祈り」も暗記せず、その祈りもしない。彼らは救いのために一度だけの悔い改め(へブル6:1以下)と聖化(きよめ)のための繰り返しの悔い改めを区別ができず、(詩編 51編; 第2サムエル 24:10; マタイ 6:12; 第1ヨハネ 1:8~9)、 罪に対する真の痛悔と悔い改めは信仰から来ることを知らない人々だ。
理由3.罪人だと告白すると地獄に行く
救われた後は悔い改める必要がないという話と同じ意味で、「罪人か、義人か」聞いて罪人だと答えると天国は義人だけが入る所で、地獄は罪人が行く所だから、地獄に行くと言う。彼らは自ら義人だというと救われたと言う。信者は神の恵みでイエス・キリストによって義と認められ、聖霊の働きの中で聖化していく。真の信仰は神の御前で、自ら罪人だと告白することが聖書的。パウロも罪に関しては過去時制で告白し、(第1テモテ 1:13) 「罪人の頭」に関しては現在時制で告白した点は(第1テモテ1:15)救い派の主張と全く違う。
上記の記述に対する本宣教会の反論
1-1.救いはすべて神の恵みとイエス・キリストを信じることによって成し遂げられます。
救いは神の恵みとイエス・キリストを信じることによって成し遂げられます。但し、真の信仰をイエス・キリストは聖書の御言葉に対する正しい理解と悟りを通して得られます。
「救いは主にあります。 あなたの祝福があなたの民の上にありますように」(詩3:8)
「あなたがたは、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(エペソ1:13)
「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(使徒の働き15:11)
上記の御言葉のように、救いは救われる私たちの努力や行いではなく、100%神の恵みによって受けます。すなわち救いは救い主イエス様が私たちのすべての罪を赦すために十字架に付けられ血を流したことによって私達を義と認めた事実を信じることによって受けます。それが信じられるためには救いの福音を正確に知り、心に真の悟りが来なければなりません。
「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も 知らないからです。」(マタイ22:29)
ユダヤ人たちは、長い間自分なりに神を信じてきましたが、ほとんどの人が、神が送ったイエス様を信じずに拒みました。当然、彼らは救われませんでした。彼らは、聖書は持っていましたが、聖書の御言葉を誤解していました。神の御言葉の内面に流れる神の心や志を正確に知らないまま神の御言葉を誤解すると、真の信仰につながりません。ですから、御言葉がイエス・キリストの世界を正確に理解して悟るようにしてくれるのです。
「これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。」(イザヤ 43:10)
「イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて 悟りなさい』」(マタイ15:10)
「イエスは言われた。『あなたがたも、まだわからないのですか。』」(マタイ15:16)
聖書は上記の御言葉以外にも、真の悟りの大事さを数えきれないほど力強く主張しています。イエス様はたびたび群衆に、聞いた御言葉を悟りなさいと言われました。また、ご自身で伝えた御言葉を悟っているかを確認して、悟れないことにもどかしく思いました。もちろん、この悟りは私たちの知恵や努力によってできるものではなく、神の主権と聖霊の働きによらなければなりません。それで使徒パウロも福音を伝えるときに下記のような心境で神の力と聖霊が現れるように恋い慕いました。
「そして、私のことばと私の宣敎とは、説得力のある知惠のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知惠にささえられず、神の力にささえられるためでした.”(第1コリント 2:4、5)
このように聖霊による真の悟りは罪の赦しの救いや主と共に信仰生活をするとき非常に重要です。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(第1コリント 2:14)
上記の御言葉で肉による人、すなわち聖霊によって生まれ変わっていない人の特徴は「悟れない」ことです。真の信仰は真理や事実に対する正確な理解と悟りを通して得られます。私たちが何かを信じるときに信仰の対象を見ないで信じることはできますが、信仰の対象を知らないで、理解せずには信じることができません。漠然として曖昧な考えを信じて従うことは迷信であって真の信仰ではありません。神に対する真の信仰は、神の御言葉を聞いて聖霊によってその御言葉が意味することを正しく悟って、その御言葉を正確に信じることで始まります。
ところが、キリスト教徒の中に神の御言葉に対する正確な理解と悟りがなく、漠然と信仰生活をしている人が多いのです。本宣教会ではどなたでも神の恵みで御言葉を正確に悟り、正しく信じることができるように導いています。実際、御言葉に対する悟りがないまま宗教的な生き方をしていたのですが、本宣教会を通して確かな御言葉を聞いて悟り、罪の赦しを受けてから新しく信仰生活をする方が数多くいます。ある人は本宣教会が悟りだけを強調すると非難もしますが、これは、上記で話した本宣教会の立場を大きく誤解しています。
1-2 必ず生まれ変わった体験とその日がなければならない
「まことに、まことに、あなたに告げます。 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ 3:3)
ヨハネの福音書3章でイエス様はニコデモに新しく生まれなさいと言われました。新しく生まれるということは霊的出生のことで、世に生まれた日があります。誕生日が何日間もあるものではないように、新しく生まれるのも長期間にかけて徐々に経験していくものではないです。新しく生まれた日があります。それで、キリスト者であれば、いつどうやって生まれ変わったか確かな証があります。
ある人は「生まれたばかりの新生児がどうやって自分の誕生日がわかりますか? 親が誕生日を教えてくれる前にはわからないでしょう?」と言いながら自ら生まれ変わった日がわからないのが当然だと主張します。しかし、肉体の出生と霊的な出生は大きな差があります。肉体的に出生することは理性や知的能力が発達していない状態で生まれますが、罪の赦しを受けて新しく生まれることは 「栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」(エペソ 1:17)、「神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています」(第1ヨハネ 5:19~20) などの御言葉で見られるように、神が知恵と啓示の精神と知覚を下さって分かるようにしてくださいました。神が分かるようにしてくださるのに、どうして分からないことが正しいでしょうか?
第1テサロニケ1章5節でこの福音が心に臨むときに力と聖霊と大きな確信でできると言われたので、本人が分からない状態で生まれ変わるという主張は聖書と相反しています。
イエス・キリストの大きな恵みと永遠の命を得たことが、人生で一番大きくてすばらしいことだと信じるキリスト者であれば、自分のたましいが罪と滅亡から救われて尊くて栄光ある神の子として生まれ変わった日を忘れて生きるでしょうか? 姦淫の場で捕られた女が主にあって罪の赦しを受けた日、十字架の強盗が楽園を約束してもらったその日より、彼らの生涯の中で祝福された日があったでしょうか? ある人はヨハネの福音3章8節の「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを 知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」の御言葉を引用して、生まれ変わるのは本人が分からないと主張をしています。聖書をもう少しだけ読んでみれば、それはそう主張する自分たちが生まれ変わってないことと、聖書に関する無知を自ら証しているものであることがわかります。ヨハネの3章に出るニコデモは生まれ変わっていない人です。それで彼は「新しく生まれなければなりません」との主の言葉が理解できませんでした。そして「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」と言いました。ニコデモはパリサイ派の宗教人としてイエス様が行った奇蹟も見て信じました。そしてイエス様が神から来られた先生であることも知っていました。しかし、イエス様は彼に「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」(ヨハネ3:8) と言われました。ところが、人々はこの聖句を誤解して正反対に「人は自分では生まれ変わったかどうか分からない」と真実を歪曲しています。本当に大きな過ちを犯しています。イエス様は「新しく生まれることがどんな霊的経験を意味するのか分からないニコデモに「あなたが… それを知らない」と言われたのであって「聖霊によって生まれた人が分からない」とは言われませんでした。それで、ヨハネの福音書3:10で主は当然知るべきことを分からないニコデモに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と言われたではありませんか。私たちが救われたかどうかは死んでみて分かるものではありません。神の御言葉の中にある証拠を通して知ることができます。また、必ず知る必要があります。
主イエスを知りたる うれしき この日や
いやしき 身をさえ すくわせ たまえり
きみに むつぶ この日ぞ うれしき
うれしき この日や うれしき この日や
きみに むつぶ この日や うれしき
上記の賛美歌の題名は、「うれしきこの日」で、第2コリント6:2に書いてある救われた日を根拠に作った歌詞だと書かれています。使徒2:41にも初代教会は福音を聞いた人々のなかで1日3000人が弟子になったかどうかを正確に区別し、計算したではありませんか。ピリピ人への手紙4:3を見ると「この人たちは、いのちの書に名のしるされている」という御言葉もあります。すなわち、パウロはどんな人々の名前が命の書に記録されているかを明らかにしています。ところが、どうやって自分のたましいが生まれ変わったかどうか、自分が天国に行くのか地獄に行くのか分からずに信仰生活をすることができるでしょうか。
ある人は本宣教会が救われた日時を正確に知っていれば生まれ変わったことに認めると偽の証言をしますが、もう一度申し上げますが、本宣教会は「イエス様を信じるならば必ず生まれ変わる恵みを受けるべきであり、本当に生まれ変わった事実があるべきだ。」という聖書の真理を強調しているのであって、その日付と時刻自体を記憶するべきだと言っているのではありません。但し、キリスト教徒として新しく生まれた体験がないことやとんでもない体験を生まれ変わった体験として誤って認識している部分は聖書に基づいて必ず正すべきです。
2.真の悔い改めと告白が必要ですが、悔い改めの祈りで罪が赦されるのでは決してありません。
本宣教会では悔い改めを信仰生活で一番大事な部分の一つとしていますが、聖書的でない変質した悔い改めの祈りは改革しなければいけないと強調します。特に、本宣教会が「祈らない」との主張は事実無根なことで本宣教会に属したすべての教会で早天祈祷会、水曜祈祷会、徹夜祈祷会が公式礼拝目次で定めてあり、聖徒個人の祈りの生活も勧めていることを明らかにしながら、聖書に基づく悔い改めに関して調べてみたいと思います。
聖書で悔い改めは救いの必須の過程であり条件ですので、救われるためには必ず悔い改めが必要です。悔い改めは「悔いて改める」という意味で、ギリシャ原語で 「metanoia」で、「進んでいる道からユーターンする、心を直す」です。それで、真の悔い改めは自分の何が間違っているかを正確に発見することから始まります。私たちは神から離れて罪を犯したアダムの中から生まれたので、私たちの一部分の行いが間違ったのではなく、私たちの根本、本質、所属、道が初めから間違っていました。悔い改めはまず、その自覚がなければならないのです。その後、根本的に神から離れている自分を否定し、神に帰らなければならないのであって、問題はいくつかの過ちや行いを告白し許しを請うことが悔い改めであると誤解している人が多いということです。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』(ルカ15:17~19)
ルカの福音書15章にでてくる放蕩息子のたとえは、本当の悔い改めをよく説明しています。その次男は父を離れて自分の考えと欲望に従って遠い国に行きました。その結果は、放蕩と飢え、苦労、失敗、そして死の前まで来ました。父の目には次男が出て行ったとき、すでに「死」が見えたのですが、次男は飢え死にしそうになったとき、ようやくその心に死を悟ったのでした。そのとき、次男はどのように悔い改めたのでしょう。お金を湯水のように使いはたした後、真面目な人になったのでしょうか?いいえ、父を離れ自分を過信して生きた人生は結局悲惨なものであることを悟り、自分自身から立ち返って父のもとへと戻って行ったのです。そのように帰ることが本当の食い改めで、救いと新しく生まれることの必須条件なのです。
しかし、キリスト教徒たちの中の大多数が、自分を否定する心の変化なしに部分的な行いだけを直し、つくろうことだけに神経を集中させています。ですから、神を離れて死とのろいの下にいる自分のたましいの状態を発見し神の恵みとあわれみの前に出ていくのではなく、「罪は犯したが悔い改めたので許してくださるだろう。」と思って、悔い改めの祈りが逆に罪を犯した自分を自らなぐさめる盾となっている人が多いのです。そのような人は、心から悔い改めて罪から抜け出す恵みを受けるのではなく、心は罪の中に留まり良心と罪の呵責に悩まされて生きています。実際、罪や咎は、心が神から離れたことで現れる結果であり、その実です。そのために、罪を犯すまいと努力するよりもまず神のもとに帰り、神の心に出会い、受け入れなければなりません。その心が人の心に留まるとき、私たちが清い人生を歩むのです。
悔い改めの大きな問題は、多くの人が悔い改めを「罪を犯した後、神に赦しを求めることで罪が赦される」と考えていること、すなわち悔い改めの祈りをすれば、罪が清まると信じていることです。従って、多くのキリスト教徒が、罪を犯すと、自分が犯した罪を告白し赦しを求める悔い改めの祈りをしており、そのような祈りをしないと異端だという。
「肉のいのちは、血の中にあるからである。」(レビ 17:11)
「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる・・・血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブ 9:22)
やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブ 9:12)
「これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタ 26:28)
「血を携えずに入るようなことはありません。自分のために、また民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」(ヘブ 9:7)
上の御言葉のように、私たちの全ての罪はどんな罪でも、イエス・キリストの贖いの血だけを信じる信仰によってのみ清められるのが真理なのですが、行いだけの悔い改めの祈りは、十字架の血だけを信じる信仰の代わりの方法になり、結局、キリストの血だけを信じることができなくしてしまいます。それで、多くのキリスト教徒たちが、罪を犯すと悔い改めのいのりをしようとだけして、イエス・キリストの血がどのように私たちのすべての罪を清めたのかをはっきりと知り信仰で完全な罪の赦しを受けられないようにしています。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
『ペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、キリスト・イエスの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)
イエスは、悔いあらためだけしなさいと言われたのではなく、悔い改めて福音を信じなさいと言われました。また、ペテロも悔い改めのバプテスマを受けて罪を赦してもらいなさいと言いました。 すなわち、悔い改めることと罪の赦しは別のものであることがわかります。そのために、悔い改めは罪の赦しを受ける前に罪から立ち返ることで、実際罪の赦しを受けるのは、福音、つまりイエス・キリストが私たちのすべての罪を赦したという事実を信じる信仰によるものです。それなのに、福音をしっかりと知り信じようとするよりも、悔い改めの祈りで罪を赦していただこうとする人がどれほど多いことでしょう!
本宣教会では、このように非聖書的で誤った悔い改めの祈りに問題があるとしているのであって、本質的で根本的な悔い改めをしなくていいと主張しているのではありません。むしろ、本当の意味での悔い改めの必要性を訴えています。それで、本宣教会は、どの教団よりも悔い改めを強調し、本当の悔い改めをしたことがあるのか確かめ、信仰相談をし、正しい信仰の道へ導いています。もちろん、新しく生まれた後にも悔い改めが必要です。しかし、その悔い改めは罪の赦しを受けて新しく生まれるために必ず最初に行うべきである根本的な悔い改めとは性格が異なるものです。
初めの悔い改めは、次男が自分の道を捨てて父のもとへと方向を変えたように、一回だけ行う悔い改めで、神を離れサタンが与えた心に従って罪人として生きた人が心を変え神の前に戻ることで、すべての罪を赦され神の子として新しく生まれるために必要な悔い改めだとしたら、その次の悔い改めは救われた神の子が罪を犯すことで神との交わりが切れた時、自分の罪を告白し悔い改めることで、再び神との交わりを取り戻すために必要な悔い改めです。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハ 1:9)
ヨハネの手紙第一を見ると、罪を言い表すことのできる資格を持つ人は、必ず神の子として新しく生まれた義人でなければなりません。すでに、完全な贖いを受けた義人には罪に対する赦しが残っておらず、もう裁きはありませんが、サタンの誘惑と弱い肉を持っているために罪を犯すことがあり、罪を犯すと神との交わりは途切れてしまいます。そのとき、聖霊は私の心の中で罪をとがめ立ち返らせるのですが、このときに罪を言い表す告白は、裁きから逃れる罪の赦しのためのものではなく、交わりの回復のためのものです。それで、ヨハネの手紙が書かれた目的も下の御言葉のように、罪に対する赦しではなく罪を犯さないようにさせようとするものです。
「私の子どもたち、私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」 (Ⅰヨハ 2:1)
明らかなことは、「やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブ 9:12)「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」(ヘブ 10:18)の御言葉のように、私のすべての罪はキリストの血によってすでに永遠の贖いが成し遂げられたので、再び赦しを得るためのささげ物が必要ありません。しかし、私たちが救われた後にも罪を犯すことがあるのですが、この部分についてはもう少しわかりやすく段階別にご説明いたします。
① 神の前で裁きを受ける罪人であることを知る。
② 罪人の罪を悟り、あわれみを請い、悔い改める。
③ 罪の赦しの福音を聞き、信じて、新しく生まれて聖徒となる。
④ 聖徒が罪を犯すと、暗闇の中に入る。
⑤ 聖徒が罪を言い表し、悔い改めることで神との関係を取り戻す。
上の ①の段階は、裁きを受ける罪人の段階で、②は罪人が新しく生まれるための心の悔い改めの段階で、③は新しく生まれた義人の段階で、④は義人が罪を犯し神と交わりが切れた段階で、⑤は義人の悔い改め、すなわち罪を言い表すことだ。②の段階の悔い改めは一生にただ1度するもので、罪人の段階にありますが、⑤の段階の悔い改めは、神と離れたときに悔い改めるもので義人だけが行う悔い改めの段階です。
はっきり知っておくべきことは、罪人が罪を犯すことと、義人が罪を犯すことには差があります。罪人がどんな罪を犯したかが問題なのではなく、罪人という位置が問題です。しかし、義人の犯罪は位置の問題ではなく、罪を犯したことによって神との交わりに問題がおきます。そのために、罪人は罪を犯した後、裁きを受ける自分の霊的状態を知り、一度でキリストの血によってそのすべての罪を完全に赦され、義人にならなくてはなりませんが、義人は罪を犯した後、その時ごとに罪を言い表すことで肉の考えと暗闇から抜け、神との交わりが回復するようにならなくてはなりません。
問題は、韓国の多くの教会員たちが、②の段階の罪人の状態で⑤の段階の罪の言い表しを「悔い改め」と変質させ、繰り返し行っていることです。すなわち、罪人の位置で日々犯す罪を赦してもらうために、罪を言い表しながら祈っているのです。そのために、罪人の位置から抜け出せないまま、常に罪の赦しを求めますが、永遠の贖いを受けた義人の位置へは至りません。
結論として、今日、一般的に行われている悔い改めの祈りは、罪人が義人になるための祈りではなく、新しく生まれた義人が神との交わりをもつために行う罪の言い表しでもなく、聖書とは違う全くおかしなものであることに問題があります。
本宣教会では、そのように聖書に基づかず、混乱して変質した悔い改めの祈りについて問題視し、聖書に基づく悔い改めに導いているのであって、悔い改めは必要ないと主張しているのではありません。
3-1 罪人は地獄へ行き、救いを受ければ義人になる。
人は心に信じて義と認められ(ロマ10:10)
ですから、信仰によって義と認められた私たちは(ロマ5:1)
上の御言葉のように、神は信じることで、その信仰の結果が義に至り義と認められるのだと言われます。ですから、神を信じると言いながら、その心が義に至らなかった場合、その信仰は誤った信仰です。イエスを信じるということは、単純にイエスが神の子であり私たちの罪のために十字架につけられて死なれた
方だということだけを信じることだけではありません。
ご飯を食べるとお腹がいっぱいになり、水を飲めば乾きがいやされるように、イエスがこの地に来られた本当の目的、すなわち、イエスの死とよみがえりの意味をはっきり知り、正しい信仰を持つと、罪から逃れて義に至るのです。その信仰で心が義に至った人が「救われた人」です。ある人は、「義人はいない、ひとりもいない」(ロマ3:10)という御言葉を引用し、義人はこの世にいない、義人だという人は傲慢だ、と異端視するのですが、それは聖書がいう2つの義の区別ができないことから生じる誤解です。
ローマ人への手紙3章20~21節や、10章3節を見ると、2つの義人が出てきます。聖書には2種類の義人があります。1つ目は、全く罪を犯さなかった義人、2つ目は、罪は犯しましたが罪の代価を支払ったことで義とされた義人です。もちろん、罪を犯さない義人は、イエス・キリストお一人だけです。しかし、罪の赦しを受けた義人は多くいます。
「義人アベルの血から」(マタ23:35)
「主の目は、義人の上に注がれ」(Ⅰぺテ3:12)
「義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は彼らの間に住んでいましたが」(Ⅱぺテ2:7、8)
ローマ人への手紙3章23節や5章12節を見ると、神はすべての人が罪を犯したと言われため、この地球上で罪を犯さない人は一人もいません。それなのに、聖書に義人が存在するのは(聖書には約50回義人が出てくる)罪を犯したのですが、義人となる道があるということです。しかし、人々は罪を犯したのか犯さなかったのかによって、義人になったりならなかったりする1つ目の方法しか知らないため、罪を犯したのにも関わらず義人であると言うと、理解ができないのです。
聖書には私たちの行いと関係なく神の恵みで義人となる道があります。
ローマ4章を見るとアブラハムやダビデが彼らの行いでは決して義人にはなれない
のですが、彼らがどのように義とされたのか詳しく説明しています。
釜山からソウルまで行くのにバスで行く道1つしか知らない人は、
飛行機でバスより早くソウルに行くということが理解できないでしょう。
聖書に出てくる数多くの義人、たとえばアブラハムやダビデやペテロのような
すばらしい神のしもべが罪を犯さなかったために義とされたのでしょうか。
アブラハムの咎やダビデの犯した罪、そしてペテロがイエスをのろい
誓いながらイエスを否認したことを知っています。ところが、聖書はどのようにして彼らを義人だと言っているのでしょうか。
その理由は簡単です。彼らは自分の行いで義となる道ではなく、神の恵みで義となる他の道を見つけたためです。自分の行いとは関係のない義、永遠に変わらない神の義を得たためです。
「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という…」(ピリ3:9)
それでは、簡単に聖書のある部分を例にとって、罪を犯したのにも関わらず義人になる道についてローマ人への手紙3章23節~24節を見てみましょう。
① すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず
② ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに
③ 値なしに義と認められるのです。
23節24節全体を書きました。「すべての人」という主語で始まるので、すべての人に当てはまる神の御言葉です。 ①の部分を見ると、すべての人は罪を犯し、その罪のため、神からの栄誉を受けることができませんでした。ところが、③を見ると、すべての人が義と認められています。どのように。罪を犯した私たちが、義と認められるようになるのでしょうか。それは、①と③の間にある②の過程があったからです。罪人が正しく生きたからではなく、イエスが罪人を義人にしてくださったためです。すなわち、すべての人が「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、神の恵みにより」義と認められたのです。
イエス・キリストが、人間のすべての罪を清められたという恵みを受けて、その力によって私たちがきれいになり、義と認められたということです。もし、イエス・キリストの十字架が罪人を義とすることができなかったら、イエスの死が意味のない死になり、十字架で流されたその血は意味のない血になってしまいます。
多くの人が①の部分は抵抗なく受け入れます。しかし、②番を正確に知らないために③番の部分に示された義を受け入れられないのです。
イエスのなさったことは完璧で、イエスの血は私たちを義とするのに十分です。
私たちがその血の力によって義とされた事実を下の御言葉が証明してくれています。
「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いやよみがえられた方であるキリスト・イエスが…」(ロマ 8:33~34)
ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙など、聖書のあちこちで、イエス・キリストの死によって、神は私たちを「義とする」と言われていますが、「いいえ、私は罪人です」と言うなら、「神様、私は義人ではありません。あなたが間違っています。」と言っているのと同じです。
また、義認という教義があるのですが、人間に罪はありますが、神が義と認めてくれただけで、義人ではないというものですが、ここにも誤解があります。神は、罪人を義人にしてから義であると言われる方であって、実際には罪が解決されていないのに、義であると言われる方ではありません。もし、罪があるのに私たちを義であるとするなら、神は正しい裁判官になれません。それで、神は下の御言葉のように、この部分についてはっきりと線を引きました。
「…私は悪者を正しいと宣告することはしない」(出 23:7)
「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、
主は忌み嫌う」(箴17:15)
結論的に、神は罪人を義人にしてから、義であると宣告するということです。またある人は、「救われた罪人」という言葉を使うことがあるのですが、これは「海から救われたが、海に溺れている人」という矛盾した言葉になります。もちろん、私たち人間は救いを受けて義人になっても、弱い肉体をもっているため罪を犯すこともあります。だからといって、再び罪人に戻ることは決してありません。
『天からこう告げる声が聞こえた。「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』(マタ 3:17)
『試みる者が近づいて来て言った
「あなたが神の子なら・・・」』(マタ 4:3)
イエスが神の子であることを何によって証明できるのでしょうか?石でパンを作り、病人を治すなどの奇跡を行えばでしょうか? いいえ。ただ、神の御言葉しかありません。神はイエスに対して、私の子だとおっしゃいました。その御言葉だけが、イエスが神の子であることの証拠です。ところが、サタンはイエスに近づいて「あなたが神の子なら」と言いながら、他の条件を与えだまそうとしました。もちろん、それにだまされませんでしたが、今もサタンは私たちにも罪を犯す自分の姿を見せながら義人であるという
信仰を持てないようにだましています。すなわち、
「あなたがもし義人なら」と言いながら、「義と認める」と言われた神の御言葉を信じられないようにしているのです。
そのために神の御言葉だけを信じる人が、義人になれるのです。
3-2パウロが罪人のかしらだと言ったことについて
ある人は、パウロも第1テモテ1章15節で、自分のことを罪人のかしらだと言ったのに、どうして傲慢にも自分のことを義人だと言えるのかと、義人だというのは聖書的ではないと反論します。しかし、第1テモテ1章13節から16節までよく調べてみると、それは第1テモテを記録した当時のパウロの実際の生活について
話しているのではないことがすぐわかります。
13節の「私は以前は…信じていないときに…」という部分を見てください。そのときのパウロは罪人のかしらでした。
イエスはそのようなパウロを救うためにこの世に来られました。
そのような罪人でも恵みとあわれみを施してくださる神をみつめ、「そのような神だったら私がこんな罪人だとしても、神の前に出れば、私のような者にも恵みをくださる。」という信仰を与えたいためなのです。(第1テモテ1:16) ところがある人は、パウロが「私はその罪人のかしらです。」と現在形で言っているのに、過去のパウロの姿を指していると言えるのか?と異議をとなえます。
しかし、この話はすぐ前の文章とつながっているものです。
『「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」という
ことばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人のかしらです。
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。』
(Ⅰテモ 1:14~16)
確かにパウロが罪人のかしらですと言っています。ところが、それは今パウロが罪人のかしらのような生活をしているという証ではありません。
その前の部分の「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」という御言葉に注目してください。イエスは罪人を救うために来られたのですが、イエスが救いに来られたその罪人の中でパウロはかしらだということです。
すなわち、「私がその罪人のかしらです」という告白は、「イエスが罪人を救うために来られたが、その救おうとした罪人の中のかしらだ」という告白です。言いかえれば、「わたしはその罪人のかしらです」という言葉は、そのすぐ前の部分で説明した「罪人」に対する補足説明です。実際、パウロは救われる前に使徒の働き
9章1節~2節、 26章 9節~12節などで見られるように、福音と教会を迫害する悪なることに先頭を切って行っていた張本人だったからです。
もし、この「罪人のかしら」を現在形で受け取るなら、テモテの手紙を書いた当時、パウロが罪人の中でもっとも恐ろしく悪なる生活をしていたという話になります。
しかし、パウロがこの手紙を書いた当時、下の御言葉のように聖霊の導きによって神と人の前に誰よりも清く
正しい生活をしていました。
ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。(使徒20:26、27)
私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。 (使徒24:16)
しかしパウロは弁明して、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何の罪も犯してはおりません」と言った。 (使徒25:8)
私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。 (使徒26:29)
私にはやましいことは少しもありませんが、 (Ⅰコリ 4:4)
ですから、パウロの告白は単純にその1節1つだけ別に切り離して時制の問題であれこれいう問題ではなく、前後の文脈とつなげてパウロが言わんとしていることに焦点を合わせて理解すべきです。
そのように理解したとき、一番自然で矛盾なく理解できるはずです。
現在、神学者たちの中で最もはっきりと伝統清教徒神学を受け継いだというロバート・レイモンド博士(現、ナックス神学校組織神学教授)は、パウロの自書伝式告白について次のように語っている。
「パウロは回心する前のサウロとしての自分の経験を話しているのだ。
動詞の時制が過去形ではなく現在形でも、自書伝的な特性に何の影響も与えない。現在形が使われていても、これが成熟したキリスト教の使徒で宣教師としてのパウロの経験を必ずしも
意味しているのではない。『歴史的な(または劇的な)現在形』は、ギリシャ語でよく知られている時制用法で、著者が読者に過去の事件と経験をより生々しく伝達しようとするとき使われる用法だ。( Dr. Robert L. Reymond、 'A New Systematic Thelolgy of The Christian Faith' 1408p)
特に、キリスト教歴史上、最も偉大な注釈家のうち一人として知られているマテューヘンリーもパウロの告白について
彼の注釈書で次のように同じように解説している。
「この節の最後にパウロは自分について述べているが、私はその罪人のかしらですと言った。パウロは一流の罪人だった。パウロは自分がそのような
人間であることを知っていた。なぜなら、自分が主の弟子たちに対して危害を
与え殺気に満ちていたためだ(使徒 9:1、2)。迫害者たちは、罪人のうちでも最も悪い罪人だ。パウロもそのような人間だった。
(Matthew Henry、'Matthew Henry's Commentary' 第1テモテ注解より)
このように現代福音主義に染まった韓国教会は、伝統福音主義の神学と関係なく、中世暗黒時代に自分たちの体制維持だけに目的をおいた改革者たちを宗教裁判に送った
ローマカトリックと同じ異端判定の刃を振り回しているのです。しかし、はっきりとしておくべきことは、その刃が彼らを守ってくれるのではなく、結局、彼ら自身の悔い改めといのちへの道をふさいでいるということです。