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2020新年の辞「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」
by 最高管理者
2020-01-02 12:54:07 | HIT : 1,050 , ブックマークする ブックマークする



2020新年の辞、パク・オクス牧師
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」


ヨハネの福音書11章40節のみことばです。
イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
もちろん、私たちがイエスのみことばを信じればいいんです。しかし問題は「イエスのみことばを信じてすべてうまくいくとは限らない。これが可能だと言うの?」人々はこのように考えるときがたくさんあります。それはイエスを無視することです。イエスに不可能なことは何もありません。
以前、スプリングフィールドに行ったとき、ある兄弟の妻が私を訪ねてきました。「牧師先生、私の夫が心が落ち込んでしまって牧会をやめようと思っています。集いにも来ないで部屋に閉じこもっています。」それで私は牧師たちを送って彼を連れて来るようにと言いました。
その兄弟が来て言った一言が「牧師先生、私はできません。」「できないとは何のだ。どうしてできないのか。」
この兄弟は私に第1サムエル記に出てくる預言者エリの二人の息子、ホフニとピネハスの話をしました。ホフニとピネハスは会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝たりして平気で罪を犯していました。それでエリは息子たちを呼んで話しました。「民全部からお前たちのした悪いことについて聞いた。それは正しくない。人が人に罪を犯したら神様に訴えるけど、人が神様に罪を犯したら、どうやって赦しを請うことができるのか。」しかし息子たちは聞きませんでした。
聖書では彼らを殺すことが神様のみこころであると書いてあります。兄弟はそのみことばを読んで落ち込んでしまいました。本当に面白いことは、聖書を読んで心が落ち込む人は初めてです。彼は「私は頑張ってもだめでした。神様は私が頑張ってもできないように決めておりました。」と言いました。
大事なのは、聖書には絶望的なところが一つもありません。絶望的なことがあっても、神様の前に出てきたらすべて解決できるようになっています。神様に出会える前、信仰を持つ前までは絶望であっても、信仰を持っていればできないことは何もありません。
私はエレミヤ書18章を読んであげました。エレミヤ書18章には、陶器師が製作中の粘土を自分の手でこわし、陶器師自身の気に入った器に作り替えるように、神様も私たちを作り替えることができると記録されています。


エレミヤ書18章の7節と8節を見ればこのようなみことばがあります。7節‘わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、’滅ぼすと言いましたね。ここだけを見ればもうだめだと思いますが、8節の‘もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。’そして9節に‘わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時。’これは、今から建て直して植えるのは選ばれた民だということです。10節に‘もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。’
このみことばを見れば、神様が選んだか、選んでいないかが重要ではなく、結論は、神様が選んだ人であっても神様に逆らえばわざわいを下し、もし選んでいない民であっても神様のみことばに従えばわざわいを思い直すと言われております。
サウル王は神様が選びました。しかし神様のみことばを聞き入れなかったから神様は彼を捨てました。私たちは異邦人であり、選ばれていない民でしたが、信仰で出て来ました。
この話を聞いて兄弟は驚きました。自分は正しくない牧師だから、「神様は私を捨てることを決めている。すでに捨てられている。だから私がいくら頑張っても無理だ。」という考えで捕らわれていましたが、このみことばを聞いてみると、わざわいや滅びるのは神様の約束通りに出て来ないからであって、滅ぼすと決めた人であっても神様の前に出て恵みを請うと神様はその心を思い直すということです。
韓国人は異邦人です。神様が選んでいません。しかし神様を信じれば救われます。反対に、ユダヤ人は神様が選んだ民でした。その彼らが信じていなかったから滅ぼされました。
兄弟がその話を聞いてどれほど変わったか、とても喜んでいました。考えてみてください。兄弟は牧師として過ちを犯して、できないと思い、神様は自分を捨てたと思い込んでいたから、牧会も上手くできないし、集いにも行きたくなくて‘私はやってもだめだ’という考えに捕らわれていました。サタンは私たちが信仰で走れないように騙しています。聖書を詳しく見て神様の御心を知れば、いくらわざわいを下すと言われた人であっても、神様の前に出てきて恵みを求めて従えば、神様が救ってくださると書いてあります。
特に、ペテロの場合はイエスを三度も否認したじゃないですか。しかし、イエスがよみがえられたとき、ペテロがイエスの前に出て「主よ。私が間違いました。どうか赦してください。」と言いたかったのですが、それを話す状況ではなかったので何も言えずにいました。そしてペテロは悩んだ末、どのように心を決めたかというと「私は魚を捕りに行く。私は使徒でもない。私はイエスの弟子だと言われる資格もない。私はイエス様を三度も否認した。私はだめだ。」という考えがペテロの心を捕らえていました。イエスがよみがえられたので、そのよみがえりについて明かしたり、みことばを伝えたりしないといけないのに、それをやめて魚を捕りに行きました。しかし夜通しで網を下ろしても魚は一匹も捕れませんでした。
イエスが夜明けにペテロの所に現れて「魚が捕れたか」「捕れませんでした。」「船の右側に網を下ろしなさい。」それでペテロはおびただしい魚を引き上げました。イエスは炭火を用意してパンと魚を焼き、水も用意してペテロを待っていました。一緒に朝の食事を済ませたとき、イエスはペテロに尋ねます。「ヨハネの子シモン。あなたはなぜ私を否認したのか」とは言いませんでした。ペテロの心はイエスを否認したことに呵責を受け「私は駄目だ。」と思っていましたが、イエスは「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか。」と尋ねました。
ペテロはイエスを愛する心を持っていました。しかし今はその心を隠してイエスを否認した罪悪感に捕らわれていたため、イエスはペテロの心が罪悪感から逃れてイエスを愛する心に呼び起こしたかったです。イエスは再び尋ねました。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか。」
ペテロ自身はイエスを否認して敵対したと思い、イエスの弟子にはなれないと思っていたのに、イエスは「この人たち以上にわたしを愛しますか。」と聞いていました。ペテロは考えました。自分の中にはイエスを愛する心がありました。サタンはイエスを愛するペテロの心を伏せておいて、イエスを否認したことだけを押し出すようにしたからそうなったのです。
ペテロが「私が主を愛することはあなたがご存じです。」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。」と言いました。‘何?私みたいな者がですか?イエスを三度も否認した私がどうやってあなたの小羊を飼いますが?どんでもないことです。’と言葉では言いませんでしたが、ペテロの心はそう思ったはずです。
ペテロの心は今までイエスを愛していましたが、その心は伏せていたので思い出さず、イエスを三度も否認したことだけで良心の呵責を受けていました。そのペテロにイエスが「あなたはわたしを愛しますか。」と三回も尋ねました。「この人たち以上にわたしを愛しますか?」ペテロはイエスを愛していました。それだけは否定できません。「私はイエス様を愛しています。」しかし今は、死んでもイエスを否認しないと誓ったのにもかかわらず否認してしまったので、愛しているということが言えなくなりました。「私が主を愛することは、あなたがご存じです。」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。わたしの小羊を飼いなさい。」と言いました。
「イエス様は私みたいに汚い人間、また三度も否認した者にこのような恵みを与えてくださるんだ。」


私たちは何を見ていますか?
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言われました。あなたが頑張れば神様の栄光を見るとか、熱心に伝道をすればではなく、信じれば、信じるのはあなた自身ではなく、イエスを信じることです。イエスは「あなたを助けることを信じるのか?イエスがあなたを救うことを信じるのか?あなた自身を信じるのではなく、わたしを信じるのか?そうだったら神の栄光を見る。」と言われております。その兄弟はスプリングフィールドで全く変わりました。
彼は同じ人です。‘私を滅ぼすことが決まっているので、私は絶対、良い牧師にはなれない。私は到底、だめな人間だ。’と絶望的な面だけを見ていました。聖書をよく知っている兄弟でしたが、自分の考えで聖書を解釈したため、どんでもないことを言ったのです。エレミヤ書18章はその意味ではありません。
今日も朝から多くの人が来て信仰相談をしましたが、人々は聖書を正確にわからないからそこに自分の考えを加えて‘私はできない。’‘私は信仰がない。’‘私は…’その考えが問題です。
イエスを否認したペテロにイエスが訪ねて、「あなたは私を愛してますか。」と尋ねました。イエスが見てもペテロはイエス様を愛していました。そうです。アーメンになるのは、いくら悪い人でもここに座れば、皆イエスを愛します。そのすべてを伏せて、自分の過ちだけを考えたら‘しまった!’と言うでしょう。しかしイエスはペテロに「私の羊を飼いなさい。」と言いました。「なに?私に主の羊を飼いなさいと?どんでもないことです。」「いいえ。できます。飼えます。」
兄弟たちはみなそうです。私がキム・キソン牧師に「刑務所に行って伝道しなさい。」「それはできません。」と彼が言いました。ある時、刑務官が「駄目です。」と断ったのに、その翌日、また訪ねたそうです。刑務官が「なぜ来ましたか?」「来いと言われたから来ました。」「いつ来いと言った?」「確かにそう言いました。」「いつ来いと言ったのか?来ないでと言ったでしょう。」と言いました。そこでキム・キソン牧師が「昨日、あなたは来ないでと言いましたが、その意味が私には来てほしいというふうに聞こえました。」すると刑務官が笑いながら中に入りましょうと言ったそうです。
私たちはあまりにも簡単に自分を諦めたり、すぐ自分を責めたり、自分はできないと思ってしまいます。その考えは私たちを滅ぼしています。
イエスが存在するのは私たちのためです。存在の目的は皆さんを愛しているからです。皆さんを立てて、皆さんを通して働くためです。
ですので、ここ聖書で何んと言われたのかというと、イエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」熱心に伝道をするより、イエスが私を助けてくださることを信じなければなりません。
せきずいの神経が損傷を受けて歩けない人が大勢いますが、ムン・ヘジン姉妹だけが運動によって足の筋肉が1,8キロ増えたそうです。そしてロボットを身につけて初めて歩いたとき、ムン姉妹の力が25%、ロボットの力が75%でした。今は姉妹の力が10%増えて35%になりました。だから歩けるのは問題ないです。さきもロボットの助けで歩いてましたね。
医者たちは全部不可能だと言いました。「余計な努力はしないでください。絶対無理です。確信します。絶対歩けません。」そうです。しかし彼女は神様を信じていました。ヘジンは倒れても、つまづいても神様のみことばを裏切りませんでした。信じていました。私は姉妹が歩けると思います。そうですね?それは時間の問題です。マラソンまでは勧めませんが、本当にたくさんのことを神様はしてくださいました。
ヨハネの福音書11章でイエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言いました。マリアとマルタは兄ラザロと一緒に3人で暮らしていました。ある日、兄が病気になりました。ふたりの姉妹がイエスに人を送ると、イエスは‘この病気は死ぬ病気ではなく、神様の栄光を表すためだ。’と言いました。イエスが死ぬ病気ではなく、神様の栄光を表すためだと言うのなら、その病気は死ぬほどの病気ではありません。しかし人々はイエスのみことばより、都合を信じていました。間違いなく、イエスは死ぬ病気ではないと言われました。それでもラザロは死にかけていて、ついに死んでしまいました。墓に葬られて臭っていました。ところで、イエスは彼をよみがえらせることができるでしょうか?できないでしょうか?もちろんできます。彼をよみがえらせるためにイエスが来ました。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
理解できることは信じ、不可能だと思うものは信じない。それは誰にでもできます。私たちの目で見たとき、ラザロは死んで腐って臭いがします。驚くことは、イエスは彼を歩かせることができるということです。さらに驚くべきことは、イエスを信じれば、皆さんにもそのような神様の働きが起こります。私はそのような経験を数えきれないほどしました。
イエスはマリアとマルタの兄弟が死んだので、その兄弟をよみがえらせるためにベダニヤへ行きました。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」と言うと「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」「ラザロは死んだのです。わたしがよみがえらせるために行きます。」そうです。イエスは彼をよみがえらせるために来ました。イエスはラザロをよみがえらせるのが目的ですが、その働きをなさるとき、隣のマリアとマルタの心もイエスと同じにならないといけません。しかしイエスが「あなたの兄はよみがえります。」と言っても、マリアとマルタは「無理です。すでに臭くなっております。」と言いました。マリアとマルタの心には兄が死んでいて、イエスの心にはラザロが生きていました。死んだラザロをよみがえらせるためには、まず、マリアとマルタの心の中から死んでいるラザロを起こしたら、実際に死んだラザロをよみがえらせることができます。
アーメン?ラザロは死んでいますが、‘彼はよみがえる’という信仰を持ったとき、よみがえらせることができます。アーメン!信じればその通りになります。
イエスがベダニヤに行って「あなたの兄はよみがえります。」と言うと、マルタが出てきて「主よ。ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言いました。この話は、すでに死んだのでその話は意味がないということでしょう。マリアも同じことを言いました。ユダヤ人たちも「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言いました。イエスは霊の憤りを覚えながら、墓の石を取りのけなさいと言いました。するとマリアとマルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と話します。その意味は助からないということでしょう。どうして?それはイエスを知らないからです。私たちはできませんが、イエスは可能です。皆さん。私たちはこのように言わなければなりません。
「主よ。私たちはできません。しかしイエス様ならできます。」私はそのようなみことばを通して、数えきれないほど多くの人たちが、死から、また病気から治ることを見てきました。医者たちはムン・ヘジン姉妹に「無駄なことしないでください。絶対歩けません。」と言いながら、歩けなくても生きていく方法を学ぶように勧めました。しかし、ムン・ヘジン姉妹は神様のみことばを信じて諦めませんでした。本当に不思議なことは、ファン・ヒョジョン長老が姉妹を観察しましたが、以前、姉妹が水泳のリハビリをするときは腕だけ動いて足は動けなかったのですが、いつからか足が動くのを見たそうです。私もその写真を何回が見ました。どんなに嬉しかったか…。神経が切れて足が全く動かないはずなのに、ある日見ると、足が少しずつ動いていました。そして足が太くなって筋肉もつきました。
神様は人間に可能なことだけ働くのではなく、不可能なことも成し遂げる方です。神様が皆さんの中で働くために、皆さんの心がイエスと一つにならなければなりません。しかしイエスが「あなたの兄はよみがえります。」と言ったとき、「はい。」と答えてそのまま信じればいいのに、「死んで臭くなっております。」と言うのは、もう臭くなっているのに、どうして石を取りのけと言うのですか?ほっといてくださいということと同じです。イエスが言われました。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
マリアとマルタはそのみことばを聞いて心が変わりました。彼女たちは「このみことばを信じれば兄はよみがえる。」と思い、墓の石を取りのけました。イエスの心がマリアとマルタの心に入ったのです。
イエスが「あなたの兄はよみがえります。」と言ったとき「腐って臭いがします。」と言ったマルタとマリアが、イエスが「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」と言われると、「主は私たちが信じれば働くと言った。信じれば兄はよみがえるのだ。」と心が変わりました。「はい。主よ。石を取りのけます。」イエスは言われました。「ラザロよ。出て来なさい。」ラザロが歩いて出て来ました。


2020年にはイエスを自分と同じ人間だと思わないでください。その方は神様なので、その方に不可能なことは何もありません。皆さんが病気になったときも、神様が私を治してくださることを信じて祈れば治ります。問題が生じても‘私はできない。不可能だ。神様は私を捨てた。無理だ。’などは言わないでください。絶対、神様は皆さんを捨てません。皆さんが神様を捨てるのです。これからは、自分の中で神様が働くということを信じてください。
私はムン・ヘジン姉妹がすぐ歩けると思います。2019年内に歩きなさいと言いましたが、2019年にはロボットを使って歩いて、今度はロボットなしで歩けるでしょう。チェ・スヒョン姉妹もせきずいの神経が死んでいました。せきずい炎で足を動かすことができなかったのですが、今はよく歩いて正常になりました。完璧に正常になりました。
神様は皆さんの中で働くことを願っております。皆さんの心を神様と共にしてください。神様が歩けると言えば歩く。神様が働くと信じれば働きます。皆さんには不可能ですが、そのみことばを信じれば、その信仰によって、神様が皆さんの人生に多いに働かれます。そうして病気も治って、そしてそのすべてに勝ち抜いて、神様に栄光をささげる2020年になることを願います
イエスは言われました。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
これからはどんなことでも‘できません。’とは言わずに、‘主よ。信じれば神様の栄光を見ると言ったでしょう?信じます。アーメン。’と言ってください。また、神様が働いてくださることを期待し、2020年はイエスが私たちの人生で足りない部分を新しくし、また驚くようにしてくださって、その栄光をお受けになり、また神様に栄光をささげる年になりますように。
ありがとうございました。