信仰の手引き(日本語)

私たちの中に新しい心が入ってくれば

投稿者
goodnews2
投稿日
2020-07-04 23:40
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絶望の中に陥ってもイエスに会えばいかなる問題も問題にはなりえません。
捕虜として捕らえられた若い娘が嬉しい日々を送ったように、すべてが嬉しいものに変わります。
イエスが光で暗闇を追い払ったように、私たちの中にあるすべての暗闇を追い払ってくれるからです。

 

捕虜として捕らえられた若い娘
人があることに懸命に取り掛かるのはいいですが、一方的に深くハマってしまうと、他人と付き合うのがとても難しくなります。友達や親戚、家族の間でも会話がうまくできないのは、ほとんど一方に夢中になって他のことを理解していないからです。ですから、どんな困難や楽しさがあっても、もう一方も見られる目を持たなくてはいけません。
列王記第二5章に、サマリヤに生きていたある若い娘が、戦争でダマスコに捕らえられた話しがあります。ナアマン将軍は、この娘を自分の妻に仕えさせて、妻の話し相手にもなり仕事にも助けさせました。若い娘はその家で暮らしながら、ナアマン将軍がツァラアトにかかっていることを知りました。彼女がどんな心が生じたか考えてみましょう。

 

 

新しい心が入ってくる 若い娘は自分が陥った状況を見て絶望したはずです。
「捕虜として捕まったのも悲しいけど、なんであんなツァラアトにかかった主人と生きなきゃいけなんだ?いつか私もツァラアトになってしまえばどうしよう。においもするし、疲れる。お母さん、お父さんに会いたい。どうして私がここに捕まってきたのかしら。」
しかし、彼女の中には神様を信じる信仰がありました。ですから思いを改め始めました。
「サマリヤにいる預言者エリシャはツァラアトをすぐにでも直せる。伝えなきゃ。」
少しずつ希望が湧き始めました。
「将軍がツァラアトから直ればどんなに喜ぶかしら。将軍が神様を信じればアラム軍にも神様を伝えるはずだ。」
若い娘は前までできなかった思いをし始めたのです。彼女の心に「捕虜として捕らえられて来て、ツァラアト病人の家で生きている」という絶望から逃れ、幸福な心に浸っていました。

 

幸福があふれる生活
ある日、若い娘はナアマンの妻に言います。
「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
最初は、ナアマンの妻は驚きましたが、集中して話しを聞いているうちに若い娘の心がそのまま伝わりました。ナアマンの妻は、ナアマンにその話しを伝えました。ナアマンにも若い娘の心が伝わりました。
「そう?夜が明けたらすぐに主君のところに行って言わなきゃ。」
次の日、ナアマンはアラム王がイスラエル王に送る手紙とともに、ツァラアト病が直るときに送る贈り物も持ってサマリヤに向かいました。
私たちが工場を作ったり農業をするためには多くの時間が必要です。 しかし、新しい心を受け入れるのはとても簡単です。若い娘の心に新しい思いが入ってきたとたん、地獄のようだったナアマンの家が平安と喜びがあふれる家とわかりました。ナアマンがサマリヤに向かったあと、若い娘は考えてみます。
「今頃、将軍はサマリヤに着いたでしょう。帰るときにはツァラアトが直って帰ってくるでしょう。奥さんと抱き合って喜んでいるでしょう。私に神様について聞くでしょう。」
神様が希望を与えたから若い娘は全然違う生活を暮らしました。故郷を思い出して病気にかかったり、寝付けなかったり、絶望の中で生きるべき若い娘が明るく暮らす話しに驚きます。

 

イエスが新しい心を入れてくださる
イエスが生きているときに、人々にお金や地位を与えませんでした。イエスに会った人は、一度も持てなかった新しい心をイエスが入れてくれます。昔持った心とイエスが入れてくれた新しい心はあまりにも違いすぎて、昔の心では生きられないようにしてくれます。
私は牧会をしながら、多くの人に会いました。様々な問題を持って人々私のところに来ると、その人にイエスを紹介します。誰でも心にイエスに対する信仰を持てば、いかなる暗闇も絶望も問題になりません。私阿智の心にイエスがいるのに世界に入れば、イエスが光を持って暗闇を追い払ったように、私たちの中にある暗闇を追い払ってくれます。ですから私たちが嬉しき、感謝しながら生きられるように生活を変えてくれることをしています。



捕虜として捕らえられた若い娘のように
度々、ナアマン将軍の家の若い娘を思い出します。ナアマン将軍はツァラアトから直って喜んでかえってきて若い娘に「これから君は私の娘だ」と言うはずです。若い娘がその家で娘のように幸せに生きて、結婚してサマリヤにいる両親に行く姿を考えるととても幸せです。
家が貧しいから問題で、勉強ができなくて問題だと考える学生が多いです。ですが、どんな絶望の中に陥っていてもイエスに会えば、何も問題になりません。捕虜として捕らえられたイエスが嬉しい日々を送れたように、すべてが嬉しいこととして変わり、幸せとして変わります。ですから、私たちはみなイエスを愛しています。