信仰の手引き(日本語)

父のところに帰る道

投稿者
goodnews2
投稿日
2021-06-09 10:26
閲覧数
47


 

負担な道
ルカの福音書15章に出てくる次男は、父の財産を持って遠い国に旅立ちました。ところがそこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまい、飢え死にしそうになった次男は考えました。
「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。私はここで飢え死にしそうだ」
父のところにはパンがあり余るほどですが、次男はなぜ豚小屋で飢え死にしそうになったのでしょうか。その理由は単純で、自分が犯した過ちのために父のところに帰るのが負担だったからです。

 

祝福の道に行かないように騙すサタン
昔の童謡の中に「野いちごがある所には蛇がいると姉は言うけど、私は騙されない」という歌詞があります。 姉が野いちごを獲りに行く時、妹を連れて行くのが嫌でした。 険しい山に妹を連れて行くと、帰りには妹をおんぶして山道を降りることになるから、妹が怖くてついて来ないように野いちごのある所には蛇がいると騙したのです。
このようにサタンも私たちを騙します。私たちが祝福を受ける道には行かないように私たちに負担を与えて騙します。
次男がお父のところに帰る道は祝福を受ける道であるため、サタンは次男を騙します。
「お父さんはお前を憎むだろう。きっとお前を追い出すぞ」
次男はそのような考えによって父のところに帰るのをためらいましたが、その考えを捨てました。
「そうだ、父が息子として受け入れてくれなければ、雇い人のひとりにしてもらおう」
次男がそのように負担を乗り越えた時、父のところに帰ることができました。
そしてそこには、父の大きな愛が彼を迎えてくれました。次男は考えたでしょう。
「僕はなぜ父のところに帰らず、豚小屋で苦労したんだろう。いなご豆で腹を満たそうとしなくても良かったのに、負担を避ける心がそうさせたんだ!」

 

 



 

負担な道を歩んだ人々
聖書に出てくるすべての祝福は負担の後にありました。ヨハネの福音書9章では、イエスが生まれつきの盲人を見られました。イエスは彼の目に泥を塗って「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言われました。シロアムに行く道は、盲人にはとても負担になります。
道も知らず、前も見えないので危険です。特に池に行って洗う時、足を踏み外して池に落ちたりしたら大変だからとても怖いです。ところが、盲人はシロアムの池に行きました。
マルコの福音書2章では、ひとりの中風の人が四人の人に担がれて、イエスのみもとに連れて来られました。ところが、群衆のためにイエスに近づくことができなかった彼らは、イエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろしました。イエスに会えば必ず治るという信仰がそうさせたのです。

 

負担を乗り越えて御言葉を信じた時
1987年、私は胃腸の病のせいで大変苦労し、体重が3ヶ月の間に7kgも痩せました。 そんなある日、マルコの福音書11章24節を思い出しました。
「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
この御言葉の通りなら、つらい胃腸の病が治るのはとても簡単です。 祈って求めたものは受けたと信じればそのとおりになるからです。しかし祈って治ったなら、キムチもコチュジャンも食べなければなりません。ところが、当時の私は刺激があるものは少し食べるだけでも下痢をしていたので、御言葉の通りに信じれば治ると思いながらも辛いものを食べるのがとても負担でした。そんなある日、苦しいお腹のために祈った後、私のお腹はもう治ったと信じてキムチも辛い料理もたくさん食べました。 そう信じて一日が経った翌朝、私のお腹は本当にきれいに治っていました。その後は今も、私の胃腸はとても丈夫です。

 

イエスを信じる信仰で負担に勝てば
負担は、私たちが祝福を受けるために越えなければならない最も高い山です。多くの人々がその山を越えることができず、イエスの祝福から去っていきます。負担を乗り越えなければ神の恵みを受けることができません。多くの祝福が準備されていますが、サタンが与える負担のせいで、その道に進むことをためらうのです。「後で、後で」と先延ばしにして、イエスの恵みとは遠い悲惨な道に向かいます。
イエスを信じる信仰で負担に勝てば、私たちのために働かれる神の愛と力を経験でき、神と共に働く栄光で尊い人生を生きることができます。