グッドニュース誌(日本語)
月刊「グッドニュース誌」は救いの福音と恵みの証を伝え、多くの人々をイエス・キリストの世界へ導いています。
「パク・オクス牧師の証」地の果てまで福音を、終わりの日まで主と共に_265
私は福音を伝える幸せな人
使徒の働き8章には、ピリポがサマリヤに行って人々にキリストを伝える話が出てくる。その以前にステパノが殺され、サウルは教会を荒らそうと家々に入り、キリストを信じる人々を引きずり出して牢に入れていた。非常に緊迫した状況だったので、ピリポはエルサレムを離れサマリヤに下って行った。
イエス様はよみがえられた後にこう言われた。
『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』ピリポは考えた。
「ここがイエス様に言われたサマリヤなのか。それなら私は御言葉どおり、ここでイエス様の復活と福音を伝えなければならない。しかし今はサウルがキリストを信じる人たちを迫害しているからとても危険だ。どうすればいいのか。そうだ。主は御言葉どおり必ず助けてくださるはずだ。だから私たちはここで主の御言葉を伝えなければならない。」
ピリポはサマリヤの町に入り、イエス様の御言葉と福音を宣べ伝えた。すると、驚くべきことが起こった。大勢の人が集まり、ピリポの話とその行っていたしるしを見て、みなそろって彼の話に耳を傾けたのだ。
いつも無口で笑顔の青年ファン・ヨンモク
宣教学校での訓練を終えた私はアプコットンに行って福音を伝えた。そして1964年からはゴチャンのジャンパリで福音を伝えた。初めは、土曜日から月曜日まではジャンパリで過ごし、火曜日から金曜日まではアプコットンで過ごした。アプコットンからゴチャンまでは17km、ジャンパリまでは約20kmだった。しばらく行き来しながら福音を伝えた後、4月からはジャンパリに引っ越した。
今もあの頃を思い出せばとても感謝に包まれる。当時、私がジャンパリに移ったものの、礼拝堂の他には何もなかった。初めは小学生の女の子二人が教会に来た。それから数日後に道でシム・ジェヨルとキム・ジョンヨンという二人の青年に出会った。彼らは福音を聞いて救われた。その時からだんだん人々が救われるようになった。
ジャンパリ教会の礼拝堂は、ゴチャンから「コムシル」という村に入る道路脇にあった。ある日、教会の前をある青年が通り過ぎるのを見て彼を呼び止めて福音を伝えた。その青年の名前はファン・ヨンモクだった。その後、数回福音を伝えると彼も救われた。本当に嬉しかった。しかしこの青年はほとんど話をせず、いつも笑ってばかりいた。救われたのだから日曜礼拝に来なさいと言っても何も言わずに笑ってばかりいた。後で分かったことだが、その青年はコムシル村のある家の作男として働いていたので、日曜日に教会に来ることができなかったと言う。それで私が「神様にお祈りすれば聞いてくださる」と言いながら教会に誘っても、彼は笑ってばかりいて返事がなかった。
火の海となったコムシル村のあの日
ある市の日、コムシル村に火事が起こった。大人の大半が市場に行ったときだったので、町中が火の海となった。私は急いでコムシル村に駆けつけた。町中が炎に包まれ、子供たちと女たちの泣き声だけが聞こえていた。家々には焚き木として使う松の枝を山ほど積まれていたので、火が非常によく燃え移っていた。
私は夢中で町中を走りながら家々の倉庫から食糧を庭のほうに移し始めた。ある家に入ると、50代のおじさんがいた。しかしその方は気が遠くなっていて、私を見た途端に「水、水、水!」と言った。私がその家の倉庫に入ると、そこには稲がたくさん積まれていた。ちょうど隣にかますがあったので、「おじさん、こっちに来てください!」とおじさんを呼んだ。そして「かますを手に持ってください」と言って稲をすくってかますの中に入れた。約十俵ぐらいの稲を庭に持ち出すことができた。。
私も夢中になって走り回っていたので、疲れ果てて倒れてしまった。ちょうどその時、村人たちが学生たちと一緒に村に来たが、村はすでに全焼した後だった。その時は冬だったので水が全部凍ってしまいどこにも水がなかった。それで人々は遠くにある池に行って氷を割って水を運び、そのようにして残りの火をすべて消すことができた。その日、新聞記者がコムシルに取材に来て、私の写真とともに記事を書いて新聞に出した。
数日後、火事で気が遠くなっていたそのおじさんがタバコを二箱買って私を訪ねてきた。 その方はファン・ヨンモク兄弟が作男として働く家の主人だった。その方が私にお礼を言いながらタバコを渡した。
「おじさん、私はタバコが吸えません。その代わりヨンモクが休みの日には教会に行かせてください。」
その方は私の頼みを聞くと約束した。それからファン・ヨンモク兄弟は毎週ではないが、たまに教会に来ることができた。神様はジャンパリでそのように働いてくださった。
福音を伝えることは世界で一番幸せなこと
ジャンパリで過ごしている間、人々が救われるのを見てとても嬉しかった。今でもあの時が懐かしい。救われて教会に出てくる人は増えたが、相変わらず貧しかったので私はよく飢えていた。それでもその時はとても幸せだった。
私は1964年10月にジャンパリに移ってから約1年半そこで暮らした。私たちは毎晩教会に集まって喉が裂けるほど賛美歌を歌った。その後は一人ずつ証をし、私が聖書の御言葉を伝えた。その後のお祈り会まで終われば、私は兄弟たちが乗ってきた自転車と私の自転車に人々を乗せてゴチャンの町まで送ってあげた。兄弟姉妹たちを送った後、私は暗い夜道に自転車を走らせて家に帰った。主日には兄弟姉妹たちと礼拝をささげ、礼拝が終わると一緒に警察署の留置場に行って福音を伝えた。5日ごとに開かれる市の日には、市場に行って伝道もしていた。喜びに満ちて過ごしていたあの頃が今でも本当に懐かしい。
アプコットンで、ジャンパリで、軍隊で、そして除隊後に行ったキムチョンやテグでも、私は毎日福音を伝えた。その間に結婚をし、1972年に娘が、そして1974年には息子が生まれた。それから1976年にはテグで宣教学校を始めた。歳月が流れ、今私も年を取った。それでも毎日福音を伝えながら過ごすことがとても幸せだ。私の伝える福音を聞いて人々が救われた時の喜びは言葉では言い尽くせない。福音を伝える際、飢えたり困難に直面したりする時もあるが、それらは問題にならない。私は、救われた人がなぜ福音を伝えないのかが理解できない。福音を伝えて困難な時もあるが、一人二人救われると幸せになる。福音を伝えることは、世の中で一番幸せなことだ。