グッドニュース誌(日本語)
月刊「グッドニュース誌」は救いの福音と恵みの証を伝え、多くの人々をイエス・キリストの世界へ導いています。
「聖書の中に」もし私たちが自分の罪を言い表すなら
もし私たちが
自分の罪を言い表すなら
Q:人々はヨハネの手紙第一1書1章9節のみことばに対して困惑しています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)罪を言い表すだけで罪がきよめられると思う人が多いのですが、この言葉について説明してください。
A:このみことばを見ると、私たちが罪を言い表すと罪がきよめられるのだと思いがちですが、それは事実ではありません。だからといって聖書が間違っているということではありません。罪をきよめられる能力はイエス・キリストの血にあります。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。そのおかげで私たちの罪がきよめられたことであって、罪を告白したから罪がきよめられた訳ではありません。この部分を正確に理解するためには、ヨハネの手紙第一の1章9節だけ読まず、7節も読まなければなりません。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んであるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」 (ヨハネ第一1:7)
「イエスの血が私たちの罪をきよめる」と言われました。それでは、9節の罪を言い表すというのは何の意味でしょうか「私は罪を犯していない」と言う人はどのように罪の赦しを受けられますか?私たちは聖書に書かれた罪の贖いの原則を知る必要があります。その原則はレビ記4章の罪のためのいけにえに出ています。
「また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、後で咎を覚える場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら…」(レビ記4:27~28)
罪のためのいけにえをささげられる最初の条件は、罪を犯して、次に罪を犯したことに気づく必要があります。罪を犯しても気づかなければ罪のためのいけにえをささげることはできません。「もし罪を言い表すなら」というのは、自分が罪を犯したことを認めることです。そのような人が罪のためのいけにえをささげられる資格があります。罪を犯してもそれに気づかなかったり、自分が罪人でなければ罪のためのいけにえをささげる必要はありません。
罪を悟った人は傷のない雌ヤギを連れてきます。そしてヤギの頭に按手をします。 その按手によって罪がヤギに移されます。その後はヤギを殺し、祭司長がその血を指につけて祭壇の角に塗ります。祭壇の角に血を塗る理由は、そこに私たちの罪が記されているとエレミヤ書17章1節に記載されています。
「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」(エレミヤ17:1)
聖書には血を塗りつけて罪の記録を消すとなっています。そのため神は私たちの罪を、もはや思い出すことはしないと言われました。
「『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』」(ヘブル10:16~17)
このように、私たちの罪をきよめるためには、まず自分が罪人であることを認めなければなりません。それが罪を言い表すという言葉の意味です。しかし「罪を言い表す」ということだけで罪がきよめられるわけではありません。罪はイエス・キリストの血によってきよめられるのです。もし、言い表すだけで罪がきよめらるのであれば、イエス・キリストが血を流す必要がありません。言い表すという意味は、自分が罪人であることを認めることであって、罪が赦されることではありません。罪が赦されるのはイエス・キリストが私たちのために死なれたからです。ヨハネの手紙第一1章7節で、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と書いてあります。イエス・キリストが血を流してくださったから、私たちが罪を言い表した後、その罪がきよめられたことを信じるのです。
イエス・キリストが私たちの罪をきよめるために血を流しました。自分が罪人であることを悟る人だけが、その恵みを受けることができます。自分に罪がないと言う人は、イエス・キリストを必要としない人です。罪を言い表すという意味は、罪の赦しを受けられる資格があり、罪の赦しを受ける過程を話したものです。私たちの罪をきよめるのはイエス・キリストの血だけです。自分のいかなる努力でも罪をきよめることはできません。私たちの努力で罪がきよめられるのであれば、イエス・キリストがこの地に来られる必要はありません。罪を赦す方法はイエス・キリストが十字架に釘づけられるほか道がありませんでした。それで、イエス・キリストがこの世に来られて、33年間生きて最後にこの世の罪を取り除きました。バプテスマ・ヨハネが言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」ヨハネの言葉どおり、イエス・キリストは世の罪を負い、十字架に釘づけられました。私たちが犯したすべての罪の罰を全部受けられました。そのため、神は私たちの罪を思い出すことはしないと言われたのです。私たちは、私たちの罪をきよめられない血を信じず、私たちの罪をきよめられたイエス・キリストの血を信じなければなりません。