グッドニュース誌(日本語)
月刊「グッドニュース誌」は救いの福音と恵みの証を伝え、多くの人々をイエス・キリストの世界へ導いています。
「レビ記いけにえ講解」和解のいけにえ⑥
「信仰」だけ義の衣を着ればよい
私たちが神の前に出るとき「信仰」と「行い」の二つ、両方持って行こうとすると、
イエスが義の服を二着準備しなければなりません。ところが、信仰は
どのような服でも合いますが、行いはどのような服も合わないため、神の前に
二つを持って行くのは不可能です。神が私たちに要求するのは信仰一つだけです。
二人なのに背広が一着しかない
パク・オクス牧師の証を1つ紹介します。
『私は除隊後、私より一歳下の兄弟が救われて一緒に福音の働きをしました。私たち二人はとても似ていて年の差も1歳で、心もほぼ同じだったので一緒に暮らすのがとても楽でした。ある日、二人とも切なる思いで「日差しが強くなるように」と祈りました。私の記憶では9月20日ごろだったと思います。私は、彼に結婚を薦めました。兄弟は24歳で姉妹は22歳でした。兄弟は孤児で給料もわずかでした。私は「兄弟の条件は良くないが人間的にはしっかりしている」と思いました。新婦の家族と話がうまく進み、お見合いをすることになりました。
ところで、私には古びた背広が一着ありましたが、兄弟にはそれらしい物がありませんでした。二人は体形が似ていたので必要なときに交代で着ていました。しかし、その日は二人とも行かなければならないのに、背広が一着だけなので困りました。それで二人とも背広を着ないことにしました。秋でしたが、背広を着ないで済むためには暖かくなければなりませんでした。私たちは半袖のワイシャツを着るつもりだったので、日差しが強くなるように祈りました。お見合いをする数日前から「神様、お見合いする日が暑い天気になりますように」と切に祈りました。姉妹の家族に背広がなくて着てこれなかったというイメージを残さないためでした。感謝なことに神が私たちにあわれみを施して暑い天気にしてくださいました。
兄弟のお見合いのときには、私も一緒に行かなければなりませんでした。しかし、私が結婚式に行って祝ってあげれば喜ばしいですが、私が行かないからといって結婚式ができないわけではありません。新郎さえ行けばよいのです。しばらくしてその兄弟はお見合いをした姉妹と結婚をしました。新しい背広も一着買いました。
イエスは私たちを神の前に立たせました。私たちが神の前に出るとき、私たちに二つの部分があります。一つは信仰で、一つは行いです。私たちが神の前に行くときに重要なことは、「何人が行くのか」です。一人で行くなら自分が着る服さえあればよいですが、二人で行くなら二人が着る服を作らなければなりません。ところが、イエスが私たちを神の前に立たせるために準備した義の服は一着しかありません。二人で行くときに服が一着しかなければ「誰が行って、誰が残るのか」を決めなければなりません。私たちがその服を信仰だけに着せて持って行くのか、それとも行いに着せていくのか、二つに一つを選択しなければなりません。
「信仰」だけ義の衣を着ればよい
私たちが神の前に出るとき「信仰」と「行い」の二つ両方を持って行こうとすると、イエスが義の服を二着準備しなければなりません。ところが、信仰はどのような服でも合いますが、行いはどのような服も合わないため、神の前に二つを持って行くのは不可能です。神が私たちに要求するのは信仰一つだけです。二つも持って行く必要がなく、信仰一つだけを見せるべきです。聖書の数ヶ所に「神は私たちの行いをご覧にならず信仰のみご覧になる」と書かれています。
信仰が義の服を着て行くとき、神は私たちをご覧になって「義である」と言われます。行いには着せる服がないから家に置いて行きます。ですから、行いが裸であろうが、汚れて汚かろうがまったく関係ありません。結婚式には新郎さえ背広を着て行けばかまわないように、神の前には信仰だけが義を着て行けばよいのです。
『それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。』(ロ-マ3:27~28)
このみことばは、結婚式には新郎のみ行けばよいのであって、新郎の友だちは家でどんな服装でいようがかまわないということです。イエスは、私たちの行いを神に等しい水準まで引き上げたのではありません。神は私たちの行いをご覧にならないため、イエスは私たちの信仰だけを神の前で義として全うしてくださいました。私たちが信仰によってどのくらい義となったのかと言えば、神ほど義となりました。ですから私たちが神とともに飲み食いし、楽しんでも心に引っかかるものがまったくありません。
サタンが私たちを悪にさせる方法がありますが、それはまさに自分の行いに注目させることです。行いを論じるなら私たちは黙るしかありません。サタンはそれを知っているため、絶えず私たちの誤った行い、犯罪、汚れた部分などをもって私たちを落胆させます。しかし、それは何の効力もありません。なぜなら、神は私たちの行いをご覧にならず、信仰だけをご覧になるからです。
へりくだった心で「罪人である」と言うべきか
真の和解のいけにえのささげ物は、全焼のいけにえとは異なります。ヤコブとエサウの話にあるように、神だけ満足されるのではなく、私たちの心も満足させる和解のいけにえのささげ物です。イエスによって、私たちはこの世だけではなく御国へ行っても、神の祝福を受けるのに足りないことがありません。
『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』(ロ-マ3:25~26)
神が義とされ、イエスを信じる私たちも義となりました。ロ-マ人への手紙4章では、こう語っています。
『働く者の場合に、その報酬は恵みではなく、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。』(ロ-マ4:4~5)
神は確かに不敬虔な者を「義と認めて」くださいました。不敬虔な者は罪があるということです。しかし、神が義と認めてくださったなら、その人は義人ですか、罪人ですか。
人々はその聖句をもって「ごらんなさい。神が不敬虔な者を義と認めたでしょう」と言います。つまり私たちは罪人だけど、神が義人のように見てくださったと言うのです。「私たちはあくまで罪人だけど、神が義人のように見てくださった」と言うならば、神がご自身の義を現したというみことばと筋が合いません。神は私たちが確かに義人だから、私たちを義と認めてくださったのです。神が義と認めてくださる前に私が義とされました。
神がどのように不敬虔な者を義と認めてくださったのか、ロ-マ人への手紙5章6節を読めば答えが出ます。
『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。』(ロ-マ5:6)
キリストが不敬虔な者のために死んでくださったため、不敬虔な者が義と認められました。イエスが死なれたことにより私たちが義人になったのをご覧になったから、神が「義」と認めてくださったのです。ですから、神が私たちをご覧になるとき、私たちの内から不義を見つけられないほどに、私たちは全うされました。
これはあり得ないことですが、例えば、神が私たちから何かの不義を見つけたとします。私たちから何かの罪や過ちを見つけたとします。その罪や過ちの対価も十字架で支払われたため、それに対して話す必要はありません。ですから、私たちは義と認められました。
店で物を買うことに例えて話しましょう。
「ご主人、これいくらですか」
「5,500円です」
「今持っているお金が5,000円しかないから、明日500円払ってもよいですか」
「いいですよ」
500円つけで買い物をして、翌日500円を払いました。すると前日に500円払わなかったことは問題になりません。まったく問題になりません。
サタンは私たちの弱点を掴み、私たちを恥じさせ困らせようとします。サタンが私たちを責めるために私たちから汚れた部分を見つけても、その罪に対する対価はすでに払われたため、訴える価値や効力がありません。ですから、私たちは堂々と神の前に出られるのです。神の前で恐れたり気づかったりする必要はありません。
ある人は「私たちは義人だと言い張らず、謙遜な心で罪人だと言うべきではないか」と言います。その人は謙遜でそう話すのではなく、自分の考えで罪人が正しいと思うから、そのように言うだけです。私たちは救われてから謙遜になればなるほど、もっと大胆に義人だと言えます。私たちの行いによって義と認められたのではなく、イエスが私たちを義人になるようにしてくださったからです。
ヤコブのように、自分の正体がばれるかと心配する必要はない
十字架の血潮によって私たちの心のすべての罪が贖われました。私たちの心の罪が雪より白く赦されていなければ、私たちは神の前に立てません。それを成し遂げるためにイエス・キリストが神の前で和解のいけにえのささげ物となりました。私たちは神の前に恥じることなく堂々と出られます。もしかして、皆さんの中には和解のいけにえのささげ物になったイエスの力を軽んじて、自分が何か足りないと思って神の前で緊張する人がいますか。和解のいけにえのささげ物になったイエスは、私たちが神の前で堂々と立てるように、私たちのすべての罪をきよめてくださいました。私たちを神の前に義人として立たせてくださいました。父イサクの前にいるヤコブのように、私たちが罪人であるのがばれるのではと心配する必要はありません。イエス・キリストは私たちが神とともに永遠に生きるのに、爪の先ほどの足りなさもないようにしてくださいました。ひたすら神を信じる信仰のゆえに、私たちの心を義と認めてくださいました。ですから、私たちの行いがどうであろうが縛られることなく、私たちを義と認めてくださったイエスを信じる信仰によって大胆に出ましょう。