ソン・インモ長老(グッドニュース・ソンジュ教会)
私はマクワウリをカボチャと言う

 私はキョンサンナムド・ハプチョンのクォンビンという村で、貧しい家の次男として生まれ、道路の下のほったて小屋で幼少期を過ごした。ある日、早朝にバスが家のすぐそばに転がり落ち、助けを求める人々が家に押しかけてきて家族が驚いたことがある。それからしばらくすると、次は家の向い側にジープが落ちる大事故が起こった。両親はその村に住めば家族みんなが死んでしまうと思ったのか、私が9歳の頃、母の実家があるソンジュに引っ越した。

 ソンジュでも貧しく、わらぶきの家すら1軒も持たず、畑を借りて農業を営みながら暮らした。父は酒と友だちが大好きで、よく母と喧嘩した。‘父さんはどうしてあのように生きるんだろう?私は大人になったら父さんのようには生きたくない。’と誓った。幼すぎて酒は飲まなかったが、よく友だちと他人のスイカ畑に行って盗んで食べたりした。それでスイカ畑にスイカがなくなると、いつも私が疑われていた。

 家も貧しくて農業は体質に合わないと思い、中学校を終える頃はお金を稼ぐために友だちと都会へ行った。お金を稼ぎながら酒とタバコと賭博を覚えた。給料をもらって溜まった酒代を払い、一晩中賭博をすると手に残るものは何もなかった。このままではいけないと思い、田舎に戻って農業を手伝った。ちょうどその頃、兄(デドク・パプテスト教会ソン・チュンモ兄弟)が、軍服務中に腰を怪我し、軍服務期間を満たさずに転役して家に帰って来た。兄は一人で横になることも、立つこともできないほど深刻だった。父は兄を担いで全国を回りながら直そうとしたが、無駄だったので結局手術を受けさせた。

 厳しい家庭事情を後にして1981年に私は軍に入隊した。10か月ぶりに初めての休暇をもらって家に帰ると、家族たちが日曜日にテグにある教会に行くと言った。兄も腰が治ってとても明るくなっていた。普段は無口だった父も家族が食卓に座ると、私に「神様を信じなければならない。救われなければならない。」と口数が増えていた。昔とは違って、家庭の雰囲気が穏やかだと感じた。2度目の休暇に出たときは父は酒をやめていて、母も明るくなっていた。以前はいつも悪夢にうなされて幽霊が見えると言い、枕元に包丁を置いて寝たりもした母が、救われてからは幸せそうに見えた。そして数日後、兄がテグ中央教会で結婚式を挙げた。私の人生で教会に第一歩を踏み出した日だった。

 1984年2月に軍から除隊した。そして職業訓練所に行って技術を学ぶつもりだったが、農作業を手伝って腰を怪我し、身動きもできない状態になってしまった。痛みがひどすぎて眠れなかった。当時、テグ中央教会からオ・チャンミョン牧師と執事が頻繁に家に来ていたが、私はみことばを聞くのが嫌で逃げ回っていた。父は一度だけでも教会に行こうと言われたが私は断った。

 そんなある日、父は胃がん末期の診断を受けた。それほど恨んでいた父が3か月しか生きられないというのを思うと、父がとても可哀想にみえて、私の人生も虚しくなった。それでも父は喜びながら私に伝道し続けた。

 少し時間が経つと、急に父は3日間食事をしなかった。がんがひどくなって苦しくなったのかと思ったが、母が「インモ、死んだ人の願いも叶えてあげるというが、父さんが生きるとしてもどれだけ生きられるの?父さんの願い事を一度聞いてくれないか?父さんの願い事はお前が救われて教会に通うことだ。そのために3日間もご飯も食べずに祈りをささげている。」と言った。私はショックを受けた。‘救いとはなんだ?胃がんの末期で苦しいはずの父さんがそこまでするなんて…’その週、私は家族と一緒に教会に行った。

 そして数日後、ハムヤンであった夏の修養会に参加して福音を聞いて救われた。イエスが私のすべての罪を洗い流してくださったという事実を思うと、家に帰る途中、バスの窓から見える景色がとても美しく思えた。救われて4か月が経過した頃、‘イエス様は私の罪だけでなく、私の病と苦しみも全部担ってくださった。’という信仰が入ってきて、まもなく腰がきれいに治った。すべての悪い習慣もなくなった。不思議だった。それだけでなく、友達に会うとイエスの話が自然に出てきた。私が救われてから2か月後に父がこの世を去った。父は亡くなる1週間前まで親戚や友達を訪ねて伝道していた。

 救われてから福音が好きで1986年にテグ中央教会で1年間宣教学校の授業を受けた。しかし、毎日人々と会って伝道する生活が負担となり、‘私は駄目だ’と思い、すべてを諦めて再び田舎に戻ってきた。当時、私は自分を導いてくださる方の話を大きく受け止めていなかったので、すべてを自分で決めていた。その後、1988年に結婚をした。私は怠け者で農作業は体質に合わないと思ったが、‘神様が農業を続けさせたらやってみよう。人々が嫌がる農業でも神様と一緒にすれば幸せだ。’と心に決めて農業を始めた。それまで栽培していた唐辛子やマクワウリやお米などすべてを整理し、マクワウリだけをすることにした。

 1993年にソンジュにも教会が開拓され、10人余りの兄弟姉妹たちとともに信仰生活をした。当時の私は、祈りが叶った人は信仰生活の上手な人だと思っていた。それで、時々自分でみことばを悟り、自分の祈ったことが叶ったら、教会を導いていた伝道師に「伝道師さんも困ったときは私のように祈り、それが叶うようにしなさい。」と言い、無視していた。 私は神様のしもべに従うということが分からなかったので、教会が信仰を持って福音の仕事をしようとすれば、都合の話ばかりしながら立ちはだかっていた。そして兄弟姉妹たちとも争うことが絶えなかった。20年をそうして暮らしながらも、私は自分の信仰が良いと思っていたのだ。

 教会では礼拝堂を建築しようと土地を購入したが、10年が過ぎても建築できなかった。私は許可が下りなかったから建築できなかったと思ったが、実は負担があったからできなかったのだ。今振り返れば、私は自分を導く方を無視し、価値のない自分を立てて、福音を防いで生きていたのだ。

 2013年、パク・オクス牧師さんが宣教学生たちと一緒に、地域教会を巡回する途中にグッドニュース・ウィソン教会に来られた。そのとき、牧師さんはグッドニュース・チョンソン教会で礼拝堂を建てた証を聞かせてくださった。聖徒2人のうちひとりが短期宣教に行き、残った聖徒は一人だけだったが、神様が喜んでおられたから礼拝堂を建てることができたと話した。人工衛星で韓国を見れば、韓国は明るいが北朝鮮は真っ暗だそうだ。神様が私たちの教会がある所をそのように明るく見ておられると言った。私は‘私たちの教会は小さくて兄弟姉妹があまりいないから建築ができない。’という考えを、‘神様がソンジュに礼拝堂を建てることを喜ぶ’という心に変わった。


 2014年夏に礼拝堂建設を開始した。マクワウリを収穫する時期だったのでとても忙しかったが、神様が工事の一部を手伝うのを見てとても幸せな夏を過ごした。 わが家を建てるときよりもっと幸せだった。礼拝堂の建築が終わると、イエスが来られる日まで教会の庭を掃きながら雑草むしりして暮らしても幸せそうだった。ところが、何が月も経たないうちに、また牧師に対抗する昔の癖が出てきた。‘教会で庭を掃いて雑草むしりしながら謙遜に生きようとしたのに、なぜそれもできないのか?’ある日、教会のキム・ヨンウク牧師が私に教会に出て来ないようにと言われた。腹が立って一週間ずっと考えた。礼拝堂を建てるとき、物心両面で一緒だったことを思うと、心がつらくなった。それで牧師を訪ねて苦しかった心を話すと、牧師はとても喜んだ。以前は、いつも私の良い姿、私の上手くやっている姿を持って牧師に出向いたが、その日は私の心を打ち明けたから喜んだのだ。そのときから教会の声が聞こえ始めた。

 2015年2月26日、礼拝堂建築を終えて献堂礼拝を行った。その日、パク・オクス牧師はマタイの福音13章44節の「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけるとそれを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)のみことばを伝えた。牧師さんは「信仰は発見することです。宝を見つけた人は喜びながら、自分の持ち物を売り尽くして畑を買います。私はその宝を見つけ、その宝によって生きています。」と言い、「私たちの宣教会の中には難しいことも多いが、私のように幸せな人がどこにいますか?信仰はとても易しくて面白いです。」とした。

 私の幸せは状況によって変わるのに、パク牧師さんはいつも幸せだと言う。そのみことばを聞いて、数年前のことを思い出した。礼拝堂を建てる前にあったことだ。ソンジュでは4,500の農家がマクワウリ栽培を営んでいて、その年のマクワウリの販売まで終わた後に、テグ新聞に‘ソンジュのマクワウリ、おめでとうございます。’という記事が掲載された。その年にマクワウリの農事が良かったので、ソンジュ全体の売上がかなり上がっていた。そのなかで売上1位がソン・インモと出た。学校に通うとき、いつも最下位だった私が4,500人の中で1等をとって気分がとても良かった。町内を回りながら自慢していたが、不思議と家に帰って寝床に入ると幸せだった気持ちは跡形もなく、空虚で虚しかった。マクワウリ農業が好きで、マクワウリが私の人生のすべてであるかのように暮らし、最高の地位に上がったが、幸せではなかった。再び牧師さんのみことばを聞いて、そのときがまた思い浮かんだ。「そうだ。農業が滅びても、一度牧師さんのように幸せに暮らしてみよう。牧師さんはイエスや福音を宝と思って生きている。私もイエスを第1順位に置いて、マクワウリを2番目に落として、福音を伝えながら生きてみよう。」と心を決めた。

 献堂礼拝を終える際、パク牧師さんはマクワウリ農業を営む兄弟たちに、農業がうまくいって福音が伝わるようにと祈ってくださった。兄弟姉妹たちが「私たちは遊んでも、マクワウリは目立つほどよく育つ。だから福音のために生きましょう。」と証をした。それから私も福音を伝え始めた。ビニールハウスの隣にあった古びたコンテナをカフェのように改造し、農場に技術を学びに来る人々に「農業は技術だけ学べてできるものではなく、まず心を学ばなければならない。」と言いながら福音を伝えた。当時、農場の規模が5千坪(現在は7千坪、国際規格のサッカー場の面積の3倍程度)ほどなので、仕事がとても多かったが、誰か訪ねて来たら、マクワウリの仕事は後回しにし、先にみことばを伝えていた。3か月間福音を伝えて一人も救われなかったが、それでも心は幸せだった。

 ある日、大企業に勤めて定年退職し、ソンジュにやってきた先輩と会った。マクワウリ農作業を習おうと友人の農場を訪ねたら、その友人が積極的に止めたそうだ。その先輩が私に聞いた。

「俺もマクワウリの農作業を習いたいんだけど、お前はどう思う?」


「先輩、マクワウリ農業ほど面白いものはないです。やってみてください。私がすべて教えてあげます。」


 先輩と話していたところ、先輩が思わず昔の話を持ち出した。


「お前の父さんと俺の父がよくお酒を飲んだけど、その度に、次男は悩みの種だと言っていた。お前が悩みの種だと。」

 それまで私は父が問題であり、私は父より優れていたと思っていた。ところが、私が悩みの種だったという事実を初めて知った。それなりに信仰生活をよくして、信仰で生きて、私がいなければ教会がうまくいかないと思ったが、違っていた。私は教会を滅ぼし、神様の仕事を妨害する人だった。福音を伝える間、神様は私自身がどんな人なのかを分からせてくださった。

 献堂礼拝から3ヵ月が過ぎた6月のある日、パク牧師さんが孫たちと一緒にマクワウリ狩りに来た。キム・ヨンウク牧師がパク牧師の隣に立て、しきりに証をするようにと言ったので、私はパク牧師の前で証をした。

「牧師先生、15年前に牧師さんがグラシアス合唱団が世界最高の合唱団になると言ったとき、私もその信仰を真似て叫んでいたら、グラシアス合唱団が世界最高になったとき、私もソンジュで最高のマクワウリの農夫になりました。」

 すると、マクワウリ狩りをしていた牧師さんが大きな声で「アーメン!」と言って大喜んだ。マクワウリ狩りを終えて教会に行く途中もずっと証をした。「牧師先生、私の父は酔っ払いだったため、私は幼い頃から‘父のようには生きたくない’と決心しましたが、自分が大きくなると酒が好きになっていました。」牧師はうなずきながら私の証を聞いていた。その日、パク牧師がソウルへ帰る途中にスウォン教会に立ち寄って、「ソンジュのソン・インモ兄弟は酔っ払いだったが、今は完全に変わりました。」と話したそうだ。

「私は酔っぱらいではない。父は酔っぱらいだったけど私はただ酒が好きだっただけなのに…」

 しかし考え直してみると、私を酔っぱらいだというのは正しかった。神様が掴んでくださらなければ、私は父よりもっと深刻な酔っ払いになったはずだからだ。パク牧師の奥さんもマクワウリ狩りをしながら「兄弟の顔色が明るい。前はひねくれていたのに…」と言われた。私は困った者であり、酔っぱらいで、ひねくれた人だということを認めると心がとても自由になった。以前は、自分のことを信仰がよくて聖書をよく知る人だと思っていたので信仰が難しかったが、私が愚かな人だということを知ったら、みことばが心にそのまま入ってきて変わることができた。パク牧師がマクワウリ農場に訪れた後、私は自分への期待が消え去って、神様だけを待ち望むようになった。

 福音を第1順位に置いて暮らし始めてから、私が福音を伝えた人のうち、初めて救われた人がイ・サンウ兄弟だ。ある日、隣の農場でマクワウリの仕事を手伝う途中、コンテナで酒に溺れながら暮らしているイ・サンウさんを訪ねると、彼は酔っ払って歩くこともできないほどよろめきながら、私を捕まえてすがりながら言った。

「兄貴、私を助けてください。ここから救い出してください。」

「あなたは私の言う事を聞く心があるのか?」

「はい、聞きます。」

 私は彼に説教集「罪の赦し、生まれ変わる秘密」を渡して読んでみるように言った。その後、パク牧師がマクワウリ狩りに訪れたとき、彼にその本の著者だとパク牧師を紹介した。彼はこれ以上酒が飲めなくなるまでずっと酒を飲み続ける人だった。そのように生きていたイ・サンウさんも、夏の修養会に参加して救われた。パク牧師の心を受け止めて足を踏み出し、5か月ぶりに得た初の実だった。彼の知り合いたちが、酔っぱらいが変わって農業を営んでいるのを見て驚き、その理由を聞くために私を訪ねてくる。兄弟を通して神様が働くことが本当に感謝である。中小企業の工場長として勤めてから退職し、ソンジュに来たキム・インギュさん夫婦も、イ・サンウ兄弟を通して教会とつながり、救われた。マクワウリ栽培がうまくいかず、悩んでいたキム・インギュさん夫婦が「マクワウリの達人に会って学びたい」と思っていたところ、イ・サンウ兄弟に出会い、彼が私を紹介してくれたのだ。私はその夫婦に「マクワウリ栽培は簡単です。一緒にやれば問題ありません。」と、私の農業方法を説明してあげた。彼らも1週間に一度ずつ教会に来て、兄弟姉妹たちの幸せな姿を見て心が開き、その妻が先に修養会で救われ、後でキム・インギュさんも救われた。

 ある日、キム・ヨンウク牧師がソンジュ新聞社に行ってみなさいと言われた。3年前に礼拝堂を建てるとき、その忙しい中に月刊グッドニュース誌に「ソン・インモのマクワウリ話」を連載したが、牧師がそのことを思い出してソンジュ新聞社にその記事を紹介してみなさいと言ったのだ。「私のような人が書いた文を誰が新聞に載せるだろうか?」と思ったが、牧師の言葉に従ってソンジュ新聞社を訪ねた。原稿を持って行って渡して帰ってきたが、その1週間後に新聞に私の記事が載った。 そして外部執筆委員に選ばれ、いつでも投稿できるようになった。牧師の心に従って進むと、神様が成し遂げることに驚き、感謝した。2016年には私のコラムがソンジュ新聞に5回連載されており、次いで、パク牧師のコラムも提案して今まで連載されている。農作業がうまくいくかいかないか関係なく、福音を伝え、人々に栽培法を教育したとき、人々が希望を持つことを見て幸せだった。

 教会でマクワウリを栽培している農家が私を含めて5世帯(現在は8世帯)だった。 ところが、昨年は二つの農家の農業が完全に駄目だった。キム・ヨンウク牧師は、「パク牧師はマクワウリ農業をする兄弟姉妹たちが皆、うまくいくと言っていましたが、ソン兄弟だけがうまくいくというのは話にならない 一人で農業がうまくいくのは罪です。農事法を他の人にも教えてください。」と言った。私は自分が何を上手くやったというより、ただ恵みを受けて農作業がうまくいっただけだと思っていたが、牧師は私に罪人だとおっしゃった。パク牧師の人生について考えてみた。パク牧師は他人の幸せと喜びのために暮す方だった。その方に比べて私は、福音を第一順位に置いたが、依然として自分の幸せと自分の喜びのために生きたのだ。「これからは牧師先生のように、他人のために生きて行かなきゃ」と心を決めた。そして今年初めに、マタイの福音書13章44節のみことばから名前を取った「宝」という集いを作り、農業に失敗した人たち10人を集めて私の農業法をそのまま真似できるように教育し始めた。

 その頃、パク牧師が大学生の会で「ソンジュにはマクワウリ農業を営むソン・インモ兄弟がいるが、彼は世界最高のマインドを持って農業を営み、講義をしに通い、ソンジュのマクワウリを率いている」と言われたことを伝え聞いた。

「私が世界最高だと?私がソンジュのマクワウリを率いるんだと?マクワウリの講義もしないのに?」

 教会に行ってキム牧師に話したら「その話は正しいです。そうなるでしょう。」と言った。考えてみたら、私のように幸せに農業をする人がいなかった。農事は大変な仕事なので、人々は自分の息子が農業を始めると言ったら積極的に止めているのだが、私は農作業をするのが幸せだから、その幸せな私の心を息子に伝えている。人のためになる幸せな気持ちで農業を営むことが、まさに世界最高のマインドではないか! パク牧師に言われたとおり、私は世界最高のマインドを持った農夫というのが正しかった。数日後に、ソンジュ郡庁でマクワウリを広報するために「ソンジュ郡が選んだ今年のマクワウリベスト10」を選定したが、その中に私が選ばれた。 授賞式に参加して認証牌ももらった。そして新品種を紹介する行事場に集まった700人の農夫たちの前で講義も行った。講義が終わると、多くの人が訪れて私の名刺をほしいと言って、私に農事法を学びたいと言った。ある方は昨年、新聞に掲載した私のコラムを見て、ぜひ会ってみたかったと言ってとても喜んだ。パク牧師に言われたとおり、上手くいかなかったことがひとつもなかった。とても不思議だった。私の短い考え、正しいという考えで生きていた頃は、幸せもなく、実もなく、周りの人々を苦しめるだけだった。ただパク牧師のみことばを聞きながら‘私も牧師先生のように生きてみよう’と心を変えただけだが、今は礼拝の度に証をするほど、毎日証が溢れている。

 私の農作法を「太平農法」と名付けた。人々は実を結ばせるために作物に一生懸命に手を加えるのだが、私は聖書の知恵で営んでいるので、のんびりしていても良く育つからだ。聖書には4つの地に対する例え話がある。道ばた、岩地、いばらの地にはいくら良い種を蒔いても実を結ぶことができないが、良い地に種を蒔くと実が結ぶ。それを見て、どんな畑に種を蒔くかが重要だということがわかった。そして詩篇1編3節「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」というみことばで、私の心がみことばに基づいていなければならないということを知った。また、ローマ書11章16節の「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」のみことばでは、根の重要性についても知ることができた。そのため、根がよくなるためなら、どんな方法でも受け入れ、適用させた。

 パク牧師がグラシアス合唱団に世界最高の合唱団になると言われたとき、「私もソンジュで最高だ」という信仰でマクワウリの達人たちを探し回りながら質問して学んだ。日本に行って農場を見学しながらも、根の大切さと畑を良い地にするために堆肥を作る過程を学んでそのまま真似した。農業は決して容易なことではない。それは1000種類以上の条件が合わなければならないためだ。それでも農事が思うとおりにいかないときは、牧師を訪ねて交わり受け、また祈りをささげ、私の問題を神様に委ねて私は休んだ。

 この間は教会を離れたある兄弟が私を訪ねてきたので、私はこう話してあげた。

「実を結ぶマクワウリがあって、今まで実を結んでいたのにあるときからは結ばないマクワウリがある。聖書にも葉が茂っていたイチジクの木に葉のほかに何もないことを見て、 イエスがその木に向って言われた。するとその木は根から枯れてしまった。どうして実が結べないのか知ってる?それは根がないからだ。根の丈夫で良い木は実を結ぶしかない。私も前は根のない信仰をした。その頃は、周りの人に苦痛を与え、教会を敵対し、滅ぼすことばかりしていた。しかし、ある日、パク牧師先生の生き方と心に出会い、私の心にその心を受け入れて生きていたら、ある日から私が変わり、私と会う人々が蘇るのを見た。「若さをささげて彼らの心をつかみたい」と言うグッドニュースコア海外奉仕団のモットーのように、私の所有を売って他人のために暮すようになった。牧師先生のように私も生きてみようと言ったら、そのときからソン・インモが現れるのではなく、私を通してイエスが現れ、それから続けて実を結んでいる。」

 その兄弟が私の証を聞いて衝撃を受け、心を変えるのを見てとても感謝した。私はマクワウリをカボチャだと言う。なぜなら、マクワウリの根は弱く、冬の寒さに耐え切れず死んでしまうが、カボチャはどこに植えても根が強くてよく育つため、カボチャの根にマクワウリの枝をつぎ合わせて育てているからだ。信仰も同じだ。信仰は100メートルを走る短距離走ではなく、42、195kmを走るマラソンのような長距離走だ。私がこの世を去るまで信仰を続けるためには、自分一人では絶対できないので、イエスにつぎ合わされ、また、神様のしもべの人生とつぎ合わせなければならない。

 パク牧師が今年6月にマクワウリ狩りに来られとき、「ソン兄弟、マクワウリだけ作らないで海外に出てマインド講演をしながら福音を伝えなさい。」と言われた。「私のような人が何の講演をするんだ」と聞き流したが、教会の導きで8月にメキシコのワールドキャンプで1時間ほど講義をした。メキシコ教会の兄弟姉妹たちが心を一つにして教会に仕え、宣教師たちが今回のキャンプが最後だと思う心構えで自分たちのすべてをささげながら準備し、神様がしもべを通して福音を力強く表してくださるのを見て、とても感謝して感激した。2年前の献堂礼拝の頃には教会の兄弟姉妹が15人前後だったが、2年の間に倍以上増えた。多くの人が私たちを通してつながり、救われていることに驚かされる。私によるものは一つもない。私はただ神様のしもべの生き方を真似しただけなのに、神様のしもべの心とつながったときから、神様が私にも驚くほど働いてくださることに感謝する。