グッドニュース 国内・外のグッドニュース宣教会のすべてのニュースを見ることができます。

2022年新年の御言葉

投稿者
goodnews
投稿日
2022-01-07 01:45
閲覧数
785
ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。(サムエル記第一30:6)

皆さん、おはようございます。サムエル記第一30章1節から 20節まで読みます。

『ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、
そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。
ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。
ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。
ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。
ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。
ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。
ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」
そこでダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残された者は、そこにとどまった。
ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れ切ってベソル川を渡ることのできなかった二百人の者は、そこにとどまった。
彼らはひとりのエジプト人を野原で見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。
さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二ふさの干しぶどうをやると、彼はそれを食べて元気を回復した。三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったからである。
ダビデは彼に言った。「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」すると答えた。「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。
私たちは、ケレテ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィケラグを火で焼き払いました。」
ダビデは彼に言った。「その略奪隊のところに案内できるか。」彼は答えた。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神にかけて私に誓ってください。そうすれば、あなたをあの略奪隊のところに案内いたしましょう。」
彼がダビデを案内して行くと、ちょうど、彼らはその地いっぱいに散って飲み食いし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から、非常に多くの分捕り物を奪ったからである。
そこでダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを打った。らくだに乗って逃げた四百人の若い者たちのほかは、ひとりも逃れおおせなかった。
こうしてダビデは、アマレクが奪い取ったものを全部、取り戻した。彼のふたりの妻も取り戻した。
彼らは、子どももおとなも、また息子、娘たちも、分捕り物も、彼らが奪われたものは、何一つ失わなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。
ダビデはまた、すべての羊と牛を取った。彼らはこの家畜の先に立って導き、「これはダビデの分捕り物です」と言った。』

聖書を読むと神様に用いられる尊いしもべたちがいました。しかし彼らにいつも喜びと平安だけがあるのではなく多くの困難や試練をたくさん経験します。ヨセフの場合は兄たちによってエジプトに奴隷として売られ、後に濡れ衣を着せられ牢に入れられたこともありました。

そして主のしもべのパウロやペテロにも試練があったように、私たちが福音を伝える間にサタンが何度も福音伝道ができないように試練や困難を与えたことを覚えています。私たちがこんなことに遭う度に、いつも神様が助けてくださいますが、一緒に福音を伝える伝道者の皆さんもそのような試練に勝ち抜いてきました。

パウロとシラスがビリピ地方でむち打ちされて監獄に閉じ込められたとき、彼らは「ここからどうやって出られるの?私たちにはできない」という絶望の中にいました。しかし真夜中ごろ、パウロとシラスは「私たちの内に神様がおられるのに何が問題なの?」と心が変わり、神様に祈りつつ賛美の歌を歌いました。すると突然、大地震が起こって獄舎の扉がすべて開けられ、みなの鎖が解かれました。目を覚ました看守は扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしたので、パウロが「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と言いました。すると看守が駆け込んで来て「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか?」そうして看守とその家族全員が救われました。夜が明けて上官たちが「彼らを釈放せよ」と言ったのでパウロが監獄から出て来た話があります。

私もそうですが、一緒に教役をしている伝道者たちが修養会や伝道集会で福音を伝えたとき、人々が福音を聞いて喜び、救われることもありますが、この世にはサタンもいるので、いつも私たちを失望させて教役ができないように妨げています。私にも例外なくそんな困難がたくさんありました。しかし時間が経ってみるとその度にいつも神様が私たちを助け、守ってくださっていました。

ヨセフは兄たちに嫌われてエジプトに奴隷として売られました。そこで終わるのではなく、ポティファルの妻によって濡れ衣を着せられ監獄に入ります。しかし彼がずっと監獄にいたのではなく、王様の夢を解き明かしたことでエジプトを治める者になります。そしてエジプトの人々を飢きんから救い、自分の家族全員を救う驚くべきことをするのを見ることができます。

以前、わが宣教会にも様々な困難もあり敵対者も多く、さらには教会の兄弟までも敵対者の側に立って私たちを攻撃する時が何度もありました。しかしその度、神様が試練の中からいつも私たちを救い出し、助けてくださいました。

私たちが福音のための働く働き手となれば、サタンが私たちを誘惑して絶望の中に陥るようにさせます。残念ながら、教役者の何人かはサタンに騙されて教会を離れ苦しむ人もいます。しかし私たちが福音のために働いている間は神様が私たちと共におられるので、決してサタンの思う通りにはいきません。サタンは私たちに、今にも滅びるように、また死にそうな思いや不可能だという考えをたくさん入れます。しかし、その試練を乗り越えたら神様が限りない恵みと祝福を施してくださいます。

これから皆さんが福音のため、また主のために生きる間、試練に遭ったら恐れないでください。彼らと共にする者より私たちと共におられる方はもっと大いなる神様であり、イエス様だからです。

ヨブ記を見ると、サタンが神様にヨブを訴えます。そこで神様はサタンの手にヨブを任せますが、彼のすべてではありません。「彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」また、他の日にサタンが訴えると「彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」神様はいつも境界線を決めて私たちが勝つようにします。

ある兄弟が闇の中で困難に陥れば、サタンは彼に神様を思い出すことができないように絶望的な考えばかり入れます。「もう私はだめだ。私には出来ない。私は伝道者でもない。」皆がそうではありませんが、稀にその考えで教会を去る人たちもいます。彼らに聞かせてあげたい話がたくさんありますが、サタンは彼らと連絡が取れないように妨げています。

そのようなこともありますが、最近は教会を去ったが再び戻って来る兄弟たちがだんだん増えつつあります。よく分かりませんが、この先も教会を去る人がいると思います。その人が誰なのかはまだ分かりませんが、サタンが引き続き試みると思います。



今日読んだ御言葉の中に出てくるダビデは神様が王と定めた人です。神様がダビデを王に立てたことをダビデもサウル王も知っていました。サウル王が神様の前に屈服する人なら、「ダビデ、私と話をしよう。今は私が王だが、神様が君を王に立てるようだ。神様の御心に従っていつでも王位を譲ってあげるからもっと仲良くなりましょう。そして、君が王になっても私たちは仲良く過ごそう。」そう言っていたならどれほど良かったでしょうか。

しかしサウルはそうしませんでした。自分は王だからいつでもダビデを殺せると思っていました。神様がダビデを王に立てたことを知っていながら「ダビデを殺そう。そうしてこそ王座を守れる。」サウルは続けてダビデを殺そうとしました。

ダビデは耐え切れずペリシテ人の地に行き、ツィケラグで部下たちやその家族と一緒に暮らしました。ある日、戦場から帰ってみると焦げ臭い匂いがしました。近づいてみると自分たちの村、ツィケラグが火で焼き払われていて、女や子どもたちはみなとりこにして連れ去られてしまいました。

それで600人ほどの部下たちが「ダビデは王になると言ったのに王とならず、子どもたちがみな死んだ後に王となっても何の意味もない」と言い、ダビデを石で打ち殺そうとしました。「ダビデを殺して私たちは自分たちの道を行こう。」ダビデは部下たちに殺されるはめになってしまいました。

聖書の「ダビデは非常に悩んだが、主によって奮い立った」と言われた御言葉がとてもいいですね。6節「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」

私たちを敵対しているすべてはサタンからきたものです。しかし私たちを守る力は神様からきます。皆さん、必ず覚えていてください。サタンより神様のほうがはるかに知恵もあり能力があるということを。そのため、サタンに攻撃されたときに「私にはできない。牧会もできない」と絶望の中に陥るかも知れませんが、一人でサタンの試みに堕ちたら難しいですが、神様に頼れば勝たせてくださいます。

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。」このような状況ですが、「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」これはキリスト者に降りかかる患難の公式です。

パウロがビリピに行って福音を伝える途中、悪霊につかれた女を治したことで訴えられ、むち打ちにされて服も破れた状態で監獄に閉じ込められました。パウロはしばらく苦しみますが、一時間が過ぎ、また真夜中ごろに、今までの状況だけをみればつらいですが、考えを変えて神様を仰ぎ見ました。「今はたくさん殴られて監獄の中にいていつ出られるのかは分からないが、しかし神様がおられる。絶対に、神様はこのままで終わらせることはしない。」

皆さん、ヨセフが奴隷として売られる時、また監獄に入った時、そこで終わりだと思いがちですが、それはエジプトの支配者になるための過程でした。エジプトを助けて、後にイスラエルの民たちを死から救い出すきっかけになったのです。

ヨブはたくさんの試練を受けましたが、神様が仰せられました。「ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」境界線を定めてくださったのです。そして「ただ彼のいのちには触れるな。」その後、神様が再びヨブを祝福しました。これはキリスト者たちが信仰生活をする上で起こる確かな課程です。

サタンは私たちに困難や試練を与えます。その時、サタンの声だけ聞くのではなく、神様に頼り、神様が必ず勝つという信仰を持つことを願います。



民がみな心を悩まし、ダビデを石で打とうと言いました。ところが、その後に何と言いましたか?「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」

「これはサタンの働きだ。しかし私には神様がおられる。だからこれは何の問題にもならない。」

神様はサタンより大きい方です。そのため、サタンの働きで苦しみに遭えば神様が働かれる機会が生じるのです。今は大きな困難はありませんが、以前は様々な問題で絶望に陥るときもありました。しかし神様を見つめればいつも希望が生じて困難に勝つことができました。

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」

皆さん、困難に遭ったとき、「これはサタンの仕業だ。しかし、私の後ろには神様がおられる。いくらサタンが働いても神様は私を栄光あるものにしてくださる。」と心から神様に頼れば、サタンの試みは終わります。そのようにしてダビデは王になりました。そしてヨセフは支配者になりました。

皆さん、神様が私たちを立てた時、サタンは私たちを滅びるようにし、またできないという考えを入れて挫折したり絶望したりさせます。しかし皆さん、私たちはその時、神様を見つめなければなりません。民たちがダビデを石で打ち殺そうとしても「ああ、神様!」と神様を見つめると力が生じました。

「略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

アマレク人たちがダビデや部下たちの妻や子どもを自分たちの妻や奴隷にしようと連れ去りましたが、どこに行ったのか、どこに行けばいいのかも分かりませんでしたが、とりあえず追撃を始めました。彼らは道の途中、野原である人が倒れているのを見つけました。

「急いでいるから早く行こう。しかしあの人を放って置けば死んでしまいそうだ。」近づいて見ると彼は三日三晩、何も食べておらず死にかけていました。それで水と食べ物を与えると意識が回復しました。ダビデが言いました。

「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」
「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。私たちは、ケレテ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィケラグを火で焼き払いました。」
「彼らがどこにいるのかわかるのか?」
「わかっています。」
「その略奪隊のところに案内できるか。」
「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神にかけて私に誓ってください。」

そのようにして略奪隊を見つけることができ、彼らが奪ったすべてのものを取り戻して帰って来ました。しかしツィケラグが火で焼き払われて住処がなくなったので再びヘブロン、イスラエルの地に行きました。

ダビデがイスラエルを去った後、ペリシテ人がイスラエルを占領しました。もしダビデがイスラエルにいたなら恐れて攻撃しなかったはずです。彼らはダビデがいないから恐れずに戦争をし、サウルはその戦争で死にました。そして神様の御心どおりダビデが王になりました。

ツィケラグが火で焼き払われた理由は何ですか?それは神様が「ここから出てイスラエルの地に行って王になりなさい。」という意味です。また子どもたちはなぜ捕らえられたのですか?それは子どもたちを取り戻すために行ってアマレク人を皆殺してイスラエルの地に戻れるように、そしてサウルが死んだので直ちにダビデが王になるのです。このようなことはある面では試練のようで難しく見えますが、神様の御心を成し遂げる尊い機会でもあります。

皆さん、私たちは神様に仕えながら多くの祝福を受けました。サタンは自分の部下がひとり奪われたと思って様々なことを通して私たちを絶望の中に追い込もうとしています。しかし、私たちが神様と一緒にいれば神様が私たちを守ってくださいます。

ですから皆さん。困難に遭う時、失望したり挫折したりせずに神様に頼ってください。

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」

新たに迎えた2022年、神様の恵みがわが宣教会に溢れることを信じています。皆さん一人一人にも祝福が溢れることを信じています。しかし私たちが祝福を受ける前にはいつもサタンが試練や困難を与えます。その時、ダビデのように神様を見上げれば、その試練や困難はまさに王となる祝福であり、また支配者となる祝福です。

神様は皆さんを見捨てません。皆さんを立たせようとしておられます。皆さんはその神様に頼ってください。すると神様が新しい力を与え、恵みを受けることができます。もう一度読んでみます。

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」

どれほど驚くべき御言葉でしょう。私たちの前には様々な試練がありますが、神様はいつも一緒にいて助けてくださり、より大きな祝福の道へと導く前奏曲であることを忘れないでください。サムエル記第一30章6節です。

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」

2022年の新年にも、神様が私たちの前に大きな道を開いてくださるでしょう。しかしサタンが嫉妬して私たちを絶望や困難に陥れようとするでしょう。その時、私たちが神様を見上げて神様を頼りにすれば、十分その試練に勝ち抜くことができ、より大きく尊い祝福が受けられるところに移してくださると思います。

この御言葉を覚えていてください。2022年にも困難や試練があると思います。しかし神様に頼って勝ち抜いて王になったダビデのように、またヨセフが支配者になったように、神様の栄光と祝福を受ける皆さんになることを願います。試練が訪れた時、困難が訪れた時、「これから私たちは祝福を受けるのだ。神様が私たちのために働く。」そう信じていれば試練に陥ることなく恵みに満ちた人生を歩むことができ、神様に喜ばれる多くの実を実らせることができると信じます。

去る1年間、助けてくださった神様に心より感謝し、2022年にも神様が私たちのためにとても驚くべき祝福を準備されたと信じています。ありがとうございます。お祈りします。



<祈り>

神様、父の御前に感謝をささげます。私たちは弱いので小さな試練一つも勝つことができません。しかし私たちが困難に遭ったとき、パウロが神様を見上げながら賛美の歌を歌い、祈った時に神様が働いてくださって恵みに変わることを見ました。

尊い主よ。私たちは主から多くの祝福を受け、恵みも受けました。そして天の御国を約束としていただきました。サタンは私たちを失望させるために試練を与えます。その度に神様が働くことを信じ、神様に頼って力を得るようにしてください。そして試練に打ち勝って神様の御心を成し遂げ、栄光を受ける恵まれた私たちになるよう祈ります。感謝します。

愛する教会と兄弟姉妹たち、そして私たちの宣教会のために限りない神様の恵みと祝福が溢れますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

2022年の新年の辞ページへ