信仰の手引き(日本語)

常に共にいるイエス

投稿者
goodnews2
投稿日
2020-03-01 17:06
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1008
誰もが困難に遭うことがあります。ですが、その困難と神様とどちらが大きいですか。神様が大きいです。私たちのために、十字架につけられたイエスが私たちの罪を赦したばかりでなく、私たちと共にいます。そして、いかなる問題でも十分に解決してくれることを信じてほしいです。



光が暗闇より強いために
創世記1章には、このように記されています。
「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠としてなにもなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみを区別された。」(創世記1:1-4)
大地は暗闇の中に覆われていましたが、その暗闇が追い出されました。神様は暗闇より強いため、暗闇を追い出すことができるのです。
ヨハネの福音章11章では、ラザロが死んで墓に埋められていましたが、イエスが「ラザロよ。出てきなさい」と言われます。ラザロは死に捕らわれていましたが、イエスは死より強いため、ラザロを死から救い出すことができます。
イエスは私たちの生活に働くためには必要なものがあります。まず、イエスが私たちと共にいることを信じなければいけません。そして、イエスが私たちの持っているすべての問題を解決できることを信じることです。そうすれば、神様が御言葉によって暗闇を追い出したように、イエスが御言葉によってラザロをよみがえらせたように、私たちにも能力によって働きます。私たちには問題を解決する力はありませんが、イエスの能力によって、私たちにある苦痛や悲しみ、問題や呪いを追い払うことができるのです。

希望に満ちた若い娘のように
列王記第二の5章には、ある若い娘が出てきます。娘はサマリヤで暮らしていて、捕虜として捕まってダマスコに連れて行かれました。そして、ナアマン将軍の家で召使いとして働きました。娘はナアマンの服を洗い、将軍の世話をしました。あらゆる面で辛い状況にありました。
ある日、娘はナアマン将軍がツァラアトに患っていることを知りました。娘はナアマン将軍がサマリヤにいる預言者に会うことを願っていました。預言者に行けばツァラアトが治るという信仰から現れた希望でした。
娘のように生きるのがクリスチャンの生活です。もし私たちが、イエスが私たちの中に生きておられることを確信し、そのイエスが私たちのいかなる問題をも解決できる能力をもっていると信じるなら、私たちの人生は輝くしかありません。



パウロは神様が共におられることを悟ってから
ある日、使徒パウロはピリピの牢獄に入れられました。鞭に打たれ、体は破れてしまい、とても痛かったですが、そこから逃れるすべもありませんでした。絶望的な状況でしたが、パウロの心には神様がおられました。パウロが牢獄に入れられたときに、はじめは難しい状況を見て失望したのかもしれません。しかし、パウロは自分の心に神様がおられることを悟った後は、神様を賛美しました。神様がこの世のなによりも大きいので、なにも問題にならないということを知ったためです。
「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(使徒の働き16:25)
パウロが祈って神様を賛美するとき、神様が働かれました。パウロの心には神様がおられましたが、彼は絶望に陥っていて苦しみの中にいたならば、神様は働かれなかったでしょう。パウロは神様を思い出し、神様はこのすべての問題から自分を十分に救い出すことができるお方だと知っていました。ですから、パウロは神様を信じて喜んでいましたし、神様を賛美したわけです。パウロがそうしたときに、その心の中におられる神様が彼のすべての問題を解決してあげました。急に、地震が起きて牢獄の門が開かれました。このことが起こったので、牢獄の看守はパウロが伝える御言葉を聞くことができ、救いを得られました。

イエスがエマオに二人の弟子を訪ねて行った
エマオに行った二人の弟子は、イエスが十字架につけられたことを悲しんでいました。イエスは彼らと共に歩いていましたが、彼らはイエスが共にいることを知りませんでした。その後、自分らと一緒にいるのはイエスだと知って喜び、エルサレムに帰りました。そして神様の能力を味わったわけです。
イエスは救われた私たちと常に共におられますが、私たちはそれを認知できない時が多いです。ですから、イエスが私たちの中に生きておられることを信じるべきです。私たちは力がないので、小さな問題でさえ倒れて絶望するしかありませんが、イエスは全能なので私たちに降りかかるいかなる問題でも解決できない問題など一つもありません。



イエスは私の罪を赦し、私と共にいる
愛する皆さん、だれでも難しい問題に遭います。痛い所はありませんか。難しい問題に遭っていませんか。ですが、その問題が大きいですか、神様が大きいですか。神様が大きいです。神様はご自分の能力で困難を十分に勝たせてくださいます。ほかのことはすべて置いておいて、私たちのために十字架につけられたイエスが私たちの罪を赦しただけではなく、私たちと共にいることを信じてください。そのイエスはいかなる問題でも十分に解決できるということを信じ、受け入れることを願います。
イエスは復活しました。そして、マタイの福音書の最後のところで「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われました。この約束通りに、皆さんにどのような難しい問題があっても、イエスが皆さんと共におられます。