グッドニュース宣教会が伝える福音
イエスは十字架で私たちの罪を終わらせました。
私が自分を見つめれば、相変わらず悪い罪人のようだが、聖書は、イエスが十字架で流した血で、私たちの罪が贖われ、永遠に全うされましたと言われます。これが、聖書がいうグッドニュース、「福音」です。その事実を信じれば、神が働かれて罪に勝ち、罪から逃れて幸せな人生を生きるのです。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ人への手紙 3章 23節)
01 罪の赦し、生まれ変わる秘密
私は真に生まれ変わったのか?
私は今死んでも天国に行けるのか?
多くのキリスト教徒たちはこの質問にたじろぐことになります。
しかし、罪の赦しと生まれ変わったことに対する明確な信仰がなければ、その心にイエス・キリストを信じる信仰はうまれません。
イエスは十字架で私たちの罪を雪のように白く洗いました。
イエスは失敗していません。
パク・オクス牧師の著書『罪の赦し、生まれ変わる秘密』は、1987年に初めて出版され、今まで世界24ヵ国の言語に翻訳され、100万冊が発行されて、牧師から聖徒に至るまで、明確な救いの確信を持たせることに多くの影響を与えています。
02 正統派福音主義のグッドニュース宣教会
イエス・キリストは世の中のすべての罪を代わりに負い、私たちを完全に救ってくださいました。
正統派福音主義グッドニュース宣教会は、イエス・キリストと彼の使徒たち及び今日に至るまで、多くの福音の働き手たちが守り、証してきた正統派福音主義神学と脈を共にしています。すなわち、本宣教会は、キリスト教の歴史上、イエスが伝えておられた福音、使徒たちとポリカルプ、13世紀フランスのピーター・ワルド、14世紀英国のジョン・ウィクリフ、15世紀ボヘミアのヤーン・フス、16世紀ドイツのマルティン・ルターやツヴィングリ、18世紀のメソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレー、19世紀米国のD.L.ムーディーのような立派な福音伝道者たちが伝えた福音と同じ福音を伝えています。彼らが持っていた信仰は、一様に人間の伝統や教理ではなく、神のみことばだけを信仰の唯一の権威と基準とし、私たちの善なる行いや努力ではなく、イエス・キリストの贖罪によって永遠に罪が赦され、ただ恵みで救われるという信仰でした。私たちが信じて伝えている福音の真理は、2000年のキリスト教歴史上、真の福音主義者たちが信じて従っていた真理と同一です。私たちは三位一体の神と、その方のみことばである66冊の聖書を真理だと信じて、すべての真理と信仰の根拠は、ただ聖書に基づくべきであると信じます。神は人間の中でイエス・キリストお一人の他に救いを得るに値する他の名前を与えたことがありません。イエス・キリストは世の中のすべての罪を代わりに負い、私たちが受けるべきすべての刑罰と裁きを代わりに受け、私たちを完全に救ってくださいました。神はこの地にキリストのからだである教会を建て、教会の中に牧師や長老、執事など、職分や多様な恩恵をくださいます。聖徒たちは十分の一の献金を始めとする物質と教会に必要な献身および奉仕などを通して福音を支えながら教会に仕え、伝道と祈りと聖書の勉強などを通して福音を広げています。私たちは、神が生きている人々をも死んだ人々をも裁こうと再び来られることを信じます。これらは私ども宣教会が信じる信仰の基本的な内容で、私たちはこれが聖書が証しているキリスト教の真理であると信じる。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ人への手紙 3章 24節)
03 信仰
神をどのようにして信じなければならないでしょうか?
電気は電線を通して流れるので、電線が互いにつながると電気が流れます。水道水はパイプを通して流れ、神様の働きは心から心に流れます。発電所で作られた電気は電線をつなげば私たちの家まで入って来るように、神の能力が私に働かれるためには心さえつながれば良いのです。そうすれば神が私の内で働かれます。私と神の心の線をつなぐことが大切です。私の考えを捨てて、善悪の知識の木が与えた知恵を捨てて、私の主観を捨てて、生きておられる神のみことばに私の心を合わせるのです。そうすれば、神の聖霊が私の内で働かれます!そうなれば、私に降りかかるすべての問題が私の問題ではなく、神の問題となります!みことばを聞いてそれを受け入れるとき、神のみことばと私が一つになります。 これが信仰です。
04 真の悔い改め
悔い改めと信仰
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」と大口をたたいたペテロは、その日、三度もイエスを知らないと、呪いをかけて誓いました。そして「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたそのことばを思い出して激しく泣きました。ペテロは、自分を信じたことがどれほど愚かだったのか悟ったのです。 ペテロはイエスを知らないと言った罪を悔い改めたのではなく、自分を信じた心と自分自体を捨てました。自分を信じる心が崩れたとき、ペテロの中で、イエス・キリストがその心を導いて信仰の使徒となりました。イスカリオテ・ユダはイエスを売ったことを後悔しましたが、自分自身がいかに悪で醜いものであるかを知っても、自分自身を捨てることはしませんでした。彼は相変わらず自分を信じていたので、苦しみのあまり自殺してしまいました。それは自分の決定に従ったことであり、自分自身を信じたということです。私たちは盗みや殺人、姦淫や嘘をついたことを悔やまなければならないのではありません。それはいくら悔やんでも、再び私たちの中で悪で醜いものが出てくるのできりがありません。それで、今日のキリスト教徒たちが罪を犯して悔い改め、罪を犯しては悔い改めるようなことを繰り返しているのです。ペテロのように、自分を信じる心から悔い改めることが、本当の悔い改めです。このことだけがイエスを頼れる信仰につながるのです。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても羊の毛のようになる。(イザヤ 1章 18節)
パク・オクス牧師 主日説教 1分