グッドニュース誌(日本語)
月刊「グッドニュース誌」は救いの福音と恵みの証を伝え、多くの人々をイエス・キリストの世界へ導いています。
「今月の説教」イエスが見たペテロ
イエスが見たペテロ
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)
文:パク・オクス(喜びニュースカンナム教会牧師)
私たちの心は常に一定ではない。私が神の恵みで救われたあと、私は主の恵みに引かれて神と福音のために生きることができた。私たちが伝道して救われた聖徒たちが立ち上がり、彼らが集まって教会になり、また力を合わせて礼拝堂を建て、宣教師を送って世界中から救われる働きが起きて…、神の力が私たちの中で生きて働くことを経験した。だからといって私たちに問題がないわけではない。サタンは私たちの心に恨めしいこと, 不平不満を言うこと, 辛いと思われることを絶えずつくり、神に向けて失望させ、心配させる。
私のような罪人が赦されて神の恵みを受けたのに…
救われる前、私は教会に通ったが、罪に落ちて『私は罪が多くて死んだら地獄へ行く』と罪のために苦しむときがあった。そのとき、私は死ねば必ず地獄へ行くと信じていた。ところが、本当に神の恵みで、神の祝福で救われた。そのとき私は長老派教会に通っていたが、再び神の恵みで宣教学校に行くことができた。そしてアップコクトンに行って福音を伝える生活をはじめることができた。
歳月が流れて私が救われてからいつのまにか58年になった。もう年だから、少しだけ生きたら、神のもとへ行くときが来た。たまに心で死を考えるととても感謝する。救われた人々の中には試みに落ちて信仰をあきらめて教会を離れる人がいますが、私は一度も福音を捨てたり、信仰生活をやめると思ったことが決してない。私のような罪人が赦され、主の恵みを受けたのに…。
ペテロもイエスの御言葉を聞きながら心に力を得た
シモン・ペテロもイエスが捕まる日の夜、主を三度知らないと言った。そのためペテロはイエスがよみがえられたが、主に合わせる顔がなかった。『私はイエスの弟子なんかではない。私は漁師であるだけだ。』ペテロはほかの弟子たちに自分は漁に出ると言って、久しぶりに再び網をもってガリラヤの海に行って漁をした。彼の考えではすぐにでも魚を船いっぱいに取ると思ったが、その夜に一匹も取れなかった。そのときイエスがペテロに訪れ、ペテロと一緒に朝食をとった。それからペテロにお聞きになった。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
ペテロは自分がイエスを知らないと言って、また弟子の位置を捨てて魚をとりに来たが、それでも心でイエスを愛していることを否認できなかった。
「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスはペテロに三度もわたしの羊を飼いなさいと言われた。
誰でもサタンの声だけを聞くと試みに落ちる。反対にイエスの声を聞きながら力を得る。ペテロもイエスの御言葉を聞きながら心に力を得た。
どんな問題や苦しみがあってもイエスがおられると
もうペトロの心の中でどんな苦しみや不足もイエスの愛と恵みに比べれば何でもなかった。以後、ペテロは五旬節の日に聖霊に満たされ、彼が伝えた福音を聞いて三千人と五千人が救われ、彼を通して足のきかない人が立ち上がる神の能力が現れた。そのとき大祭司の一族もみな集まり、ペテロをきびしく戒めて『これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならない。』と言った。するとペテロは彼らに答えて言った。
「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで釈放した。
救われた私たちはみな神の恵みを受けて、また私たちには試練や迫害が寄せて来る。このとき私たちの心で神の恵みが大きくてイエスが大きくなれば、すべての試練と迫害に勝つことができる。ところが神は確かに大きな方であるが、私たちの心では神より寄せてくる問題がより大きい場合がある。神は問題などをイエスの御名によって勝ち、信仰が育ってほしいと私たちに与えることなのに, 単純に状況だけ見れば信仰をあきらめたほうが楽だと思う。
信仰は自分を信じるのではなく、イエスを信じることである。私たちがどんな困難であれ、どんな苦痛を受けても解決できない問題は一つもない。反対にイエスなしに自分が問題とぶつかると本当の問題になる。私たちはいかなる問題も解決できないからだ。
ペテロの立場で見たペテロと、イエスの立場で見たペテロは違った
イエスが十字架につけられて亡くなり、よみがえられた。ところで、ペテロはイエスの弟子であり、使徒でありながらも自分の考えにしばられ、魚をとりにガリラヤの海に行った。いくら考えてみても自分はイエスの弟子としてふさわしくないようだった。そこでイエスがパンを準備してペトロを待っていた。ペトロはイエスとことばを交わし、イエスのことばが彼の心にとまった。
同じペテロだが、ペテロの立場で見たペテロと、イエスの立場で見たペテロは全く違った。イエスがペテロに尋ねた。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
そしてペテロにわたしの羊を養いなさい、わたしの羊を飼いなさいと言われた。ペテロはイエスを否認して、弟子の道を捨ててガリラヤの海に来たが、イエスはペテロに会って直接に話した。イエスとペトロは心があまりにも違っていて、ペトロはイエスの心に出会い、新しい心を持つことができた。それなら私たちが犯した罪についても私たちが判断するのではなく、イエスを思えば何の問題もない。イエスが死んだのは、私たちを罪から救うためだったからだ。イエスの死が私たちをすべての過ちから解放した。
ペテロが自分のことを考えると何もできない人だ。しかし、イエスのほうから見たら能力のある神のしもべだ。ペトロはサタンの多くの考えを心に持っていたが、もうイエスの考えに心を変えた。
せっかちな自分の考えにしたがって決めずにイエスを見つめれば
同じ事件や仕事や病気でも、サタンの領域で考えることとイエスの領域で考えることは全く違う。ペトロは元々間違いのある人だ。 足りない。それでイエスがいらっしゃるのだ。あとでペトロはこう思っただろう。
『私がそのとき、イエスに聞いてイエスと相談しなければならないのに、サタンにだまされたな。もちろん私は過ちを犯したが人には落ち度があるが、それでもイエスがいらっしゃったら問題にならないんだな。』
イスカリオテ・ユダがイエスを売ったのと、ペテロがイエスを否認したのと大きな違いはない。問題はサタンがそれらのことで私たちをイエスから遠ざけようとしていることだ。もしペトロもイエスに会わずに自分の考えに従って生きていたら信仰を回復することはできなかっただろう。
サタンはずる賢く私たちは愚かだ。そのため多くの人々は過ちがあるとき落ち着いて主の導きを受けるより自分の判断で結論を出してしまう。『もしイスカリオテ・ユダが我慢して待ってイエスに会って許しを求め、ペテロと一緒に伝道旅行をして福音を伝えたら…』という気がして、反対に『ペトロもユダのように自分の判断に従っていたらどんなに間違っていただろう』という気がする。 私たちはみんな間違いが多い。しかし過ちはしたもののイエスの恵みを受けてペトロのようになることもありうるし、逆にユダのようになることもある。問題があるとき、過って罪を犯したとき、私たちはイエスの中で主の恵みを受けなければならない。せっかちな自分の考えに従って決めずにイエスを見つめれば、私たちはみんなペトロのようになれる。