シム・ホンソプ(グッドニュース・チンヨン教会)
みことば、光、そして新しい人生!

 キョンサンナムド・ハプチョンの田舎町で7人兄弟のうち三男として生まれた私は、幼い頃から貧しい暮らしを送った。中学校1年生になったとき、柿の木から落ちて 腎臓が破裂してしまい、血を流して2日間も意識を失っていた。大学病院で手術を受けたが助かる見込みがないと言われた。それに、入院費がかかりすぎて完治まで待たず、逃げるように退院した。


 私の病気のことで母は教会に通い始め、私も教会に行くようになった。だんだん体の調子もよくなり、生き返ったことに感謝して熱心に教会に通った。教会では「アダムが犯した罪はイエスが洗ったけど、私たちが犯す罪は悔い改めて、熱心に奉仕をしなければならない」と話していた。


 教会に通うほど、罪の重荷はさらに重くなった。失望も大きくなった。町の有名人である教会の大人たちと牧師がお金の問題で争い、教会が分裂し、聖徒会の先輩たちも罪に溺れた生活をしていた。しかし「人間は善良には生きられないんだ!」という気持ちはあるものの、絶対的な存在である神様は否定できなかった。私は罪から逃れることもできず、ただ、あるがままで生きていた。


 高校に入ってから、3カ月に1度ずつ払う学費を期限内に納めることができず、いつも事務室に呼ばれていた。そんな人生が嫌で学校を辞め、お金を稼ぐためにプサンに行った。そして自動車整備の仕事をしていた従兄に会って板金技術を習得した。1884年、私が20歳になったとき、ハプチョンに戻って自動車塗色を学んだが、早くお金を稼ぎたくて一箇所に長く留まることがなかった。人々はそのように飛びつく私を利用していた。そのような悪い人が豊かに暮らすのを見て、善良なものも必要なく、権力やお金がなければならないという方に考え方が変わった。


 好き勝手に生きていたので即興的に犯す罪も多くなり、お酒もたくさん飲むようになった。お金も稼ぐたびに使ってしまった。1991年には居酒屋でケンカをして刃傷まで負った。「シム・ホンソプはもうだめかも!」と思い、生きる希望を失った。そのとき、学生時代に教会で聞いた、死んだら地獄へ行くという話が思い浮かんだ。この世で普通の人々が享受する生活も享けられずに生きていて死ぬのが悔しかった。


 これまで罪をたくさん犯してきたから「神様が本当に生きているなら私も人間らしく暮して見たい」という心がした。もう一度教会に行こうと決めた。‘1991年12月31日以前の暮らしはもうない。私の人生は終わったから1992年1月1日から新たな人生を開始する’と心に決めた。欲張らずに、農業を手伝いながら両親を困らせずに真面目に生きようとした。
 1992年1月、当時、チャンウォン機械工業高校に通っていた5番目の弟が家に帰ってきて母に伝道をした。教会には私のほうが長く通ったが、聖書については弟のほうが私よりもよく分かっていた。弟が通っている教会は違うようで、どの教会かと聞くと、グッドニュース宣教会だと答えた。当時、ハプチョンにはグッドニュース宣教会傘下の教会がなく、アプコクドンにあった。

 ゴチャンを行き来しながらアプコクドンを通るとき、その教会を見たような気がして、弟に一緒に行こうと言った。その日、アプコクドン教会で福音を初めて聞いた。伝道師が聖書のみことばを詳しく説明してくれた。長い間、教会に通ったが、これほど詳しく聖書の話を聞くのは初めてだった。罪を犯したから罪人ではなく、アダムの子孫である私たちは生まれたときから罪人であることが分かった。レビ記の話で、罪を犯したイスラエルの民たちが、罪のための全焼のいけにえをささげる話を聞いた。そして、なぜイエスがこの地に来なければならなかったのかが分かった。 「私の罪をイエスがすべて負って、罪の代価が支払われたというみことばを聞いたとき、私の罪は消え去った。私の心が天に向かって開かれた。

 救われた後、ハプチョンから25kmほど離れたアプコクドンにある教会に通った。信仰をするために自動車整備の仕事を辞め、電柱を積んで運ぶ運転手の仕事をした。それでも日曜日だけしか教会に行くことができなかった。1993年にハプチョンにも教会が開拓され、集いによく行くようにはなったが、私の心には欲望が多かった。心の迷いは終わったが、お金に対する欲は捨てられなかった。

 その後、チンジュに行って仕事をすることになって、1994年からはグッドニュース・チンジュ教会にて信仰生活をした。そして1995年に結婚した。以来、二人の子どもが生まれ、月給100万ウォンでは生活が厳しくなった。お金を稼ぎたかった。福音も、救われたことはありがたいが、心の底からはもっと素敵な人生にしたいという思いがあった。

 私は、まともに学んだものもなければ他人の下に入るのも嫌だったので、資金はないが、リサイクル商売を始めた。1988年IMFの頃私の手に現金があっても、自宅に持っていくお金がなかった。手元の現金は翌日に品物を買わなければならなかった。たくさん仕事をしてもお金は稼げず、大変だった。その苦しさを忘れるために、昔のように酒を飲み始めた。商売をするには人々との付き合いが大事なので、私は人々と会ってよく酒を飲んだ。

 教会では生活の厳しさや私の状態について語らず、だんだん教会には行かなくなかった。家賃が滞納して子どもが飲む牛乳が切れても、私は何も知らずに自分の考えに酔って暮らしていた。

 子どもを飢えさせてはいけないと思い、再びハプチョンに引っ越した。実家で病気の父の代わりに農業も営み、電気会社にも再び通った。しかし、教会には依然として行かなかった。ある日、5歳になる娘と3歳の息子も一緒に、家族全員が食中毒にかかり、そのとき、息子が亡くなってしまった。

 再び教会に通い始めた。しかし、教会に行くのは自分の必要に応じて行くだけだったので心を折ることはなかった。依然として酒を飲んだ。みことばを聞いて酒をやめようとも思うが、外に出れば簡単に酒と世の中に溺れていた。伝道集会があるときは酒を飲まず、集会が終わると何日も飲み続けた。自然と救われた他の兄弟たちと比べるようになった。私より後に救われた兄弟たちも神様に導かれるのに、私はそうではなかった。‘救われた人がこうしちゃいけないのに…’とばかり思っていた。

 数十年もハプチョンで暮らしてきたため、人々の大半は先輩や後輩や友人だった。 救われていない彼らに福音を伝えるべきだったが、お酒を飲み続けるうちに自ら諦めていた。「このように生きて死ぬのが神様の計画かな…それでも日曜日は教会には行かねば…」と思いながら生きていた。教会で姉妹たちがお酒を飲まないでくれ、ちょっとマシな人になれと言った。その話に呵責を受け、覚悟と決心するが無駄だった。すぐにまた酒に溺れてしまった。

 恵みを受けて2004年からは役所に所属されて道路を管理する仕事をしたが、2011年にその仕事を辞め、知り合い10人が集まって新しい仕事を始めたが、しばらくしてそれさえも解散し、どっちつかずの状態に陥った。職場がなくなって家で一日中酒ばかり飲んだ。お酒を飲みすぎるとミスも多く、体調も崩してしまった。初めは酒を飲むときはつまみも食べたが、あるときからは酒ばかり飲んでいた。肝臓が悪くなれば病院に入院し、回復した後はまた酒に溺れていた。病院に何度も入院し、チャンニョンのブゴクにある国立精神病院にも2度入院していた。しかし、退院すればまたお酒を飲みながら暮らしてきた。酒に酔って市内を歩き回って、人々と喧嘩して交番に行ったりしながら…。



 2013年冬、死んだほうがいいと思うほど混沌とする中で過ごした。12月17日火曜日、チンジュでグラシアス合唱団のクリスマスカンタータ公演があった。公演前日、妻はその間、酒を飲むことを阻止してきたが、「どうせ飲むつもりなら好きなだけ飲みなさい」と言って1.8ℓの焼酎4本を買ってきた。5本買おうとしたが重くて4本だけ買ってきたそうだ。私は火曜日まで3本を飲んだ。

 火曜日の夜、パク・オクス牧師がチンジュカンタータ公演が終わった後、ハプチョン教会に来た。そのとき、妻がパク牧師に「夫は救われてから20年になりますが、酒のせいで死にそうです。」と訴えると、パク牧師が翌日未明に私を連れて来るように言われた。

 12月18日水曜日の明け方、ある兄弟夫婦が車で持って私を迎えにきた。私は起きたが、体がふらついて精神を取り戻せないほどだった。半月以上、毎日焼酎を7~8本ずつ飲んでいたせいか、身体を動かすのが難しかった。‘酒に酔っていても宣教会の代表であるパク牧師に会わなきゃ…」と思い、残った焼酎を茶碗に注いで飲むと、少し体調が良くなった。それから洗顔をして教会に行った。

 パク牧師は早朝のお祈りの時間にみことばを伝えた後、私を呼んだ。パク牧師は私に、救われたのは確かなのかと尋ねた。

「はい、救いの福音は確かに信じています。」

また、パク牧師はなぜ酒を飲み続けたのかを聞いた。私は今までのことをすべて申し上げた。

「私は他の兄弟と違って、福音もあまり伝えられず、霊的なものもなく、変化も受けられないようです。それで心が少しつらくなるとお酒を飲んでしまいます。」

するとパク牧師がこのようにおっしゃった。
「シム兄弟、ヘブル人への手紙10章で、『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。』とした。イエスが一つのささげ物によって、聖なる者とされた人々を永遠に全うしてくださったのだ。シム兄弟も全うされた人だ。信仰は簡単だ。例えば、酒を飲んだ後、コップをテーブルの上に置いてからこう言うんだ。‘私の体は酒を飲んだが、心では、私は酒をやめた人だ’と言いなさい。これが信仰だ。シム兄弟はもう全うされたのだ。自分を信じてはいけない。ガラテヤ書に『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』と言った。だからシム兄弟はもう終わったんだ。」

 パク牧師が私に聞かせてくれたみことばは、私が救われたときに聞いた福音と同じだった。‘そうだったのか!私は酒を飲むが、私はもう酒を止めた人だ!’私は悪を行うが、2千年前にイエスが成し遂げたことによって義と認められていた。私は自分の行いとは関係なく、アダムのゆえに罪人となり、イエスのゆえに義人となった。主が成し遂げたことを信じて救われた後、私が努力して自分を変えなければならないと思っていたが、それは間違っていた。信仰は、救われたときと同じく、イエスが成し遂げたことを信じることだった。私は今まで騙されていたような気がした。これまで私は自分の行いを直そうとしていただけであって、聖書のみことばを信じようとはしなかった。

 パク牧師にお目にかかって家に戻り、胃がもたれたので残った焼酎を飲んだ。けれども「あなたは全うされました。」というみことばは心から離れなかった。

 パク・オクス牧師は、私が全うされたというみことばだけ伝えただけじゃなかった。私に歳を聞いて、私が49歳だと答えると、「シム兄弟、10年ほど福音伝えなさい。カンナム教会に来て、私の下で宣教学生たちと一緒に訓練を受けなさい。」と言った。私はパク牧師が、牧師の下にきて酒も断ち、みことばを聞いて恵みを受けろという話かと思いきや、マハナイム宣教学校に入れという話だったので戸惑った。20年の間、お酒を飲んで、福音どころか、教会に敵対して、ハプチョン教会の牧師たちに迷惑ばかりかけた私が? 口からすぐに出た言葉は「私のような人がカンナム教会に行けば教会は駄目になります!」という言葉だった。

 

「シム兄弟はなぜ自分を信じるのか?ここにいる人、みんなまともな人間はいない。だからこそイエスが必要だ。妻と話し合って宣教学校に来なさい。いつ頃来るのか。」

 半月の間、お酒ばかり飲んで体調がよくなかったので、何日ほど休んで体調が回復でき次第12月23日に行くと申し上げた。

 その日以降、私は酒を飲まなかった。そして妻が作ってくれるお粥を食べながら体ガ回復するのを待った。酒に溺れて死ぬしかない私を哀れんで、私の残りの人生を福音のために生きるように、イエスが私を尋ねて来てくださったという気がした。

 私は酒ばかり飲んで学んだこともあまりない無知な人である。福音を伝えるのは神様の仕事で、私には体だけしかない。宣教学校に入ったが、私が宣教学生だということが言えなかった。人々が「どこから来ましたか?」と尋ねれば「ハプチョンから来ました。」と答え、「どうして来ましたか?」と尋ねれば「牧師さんが来なさいと言ったので来ました。」と答えた。私が宣教学校に入学しているという話はできなかった。その後、私は学歴や信仰についても他の宣教学生たちと比較するようになり、授業中も何を書けばいいのかもよく分からず、発表もできない私を見て心が落ち込んだ。私はあまりにも不器用で、だめだと思った。しかし、2013年12月18日に「シム兄弟はすでに終わった。シム兄弟はもう全うされた。自分を信じるな。」というみことばが私の心に入り、私はすでに聖なる者となり、全うされていた。

 まだ、教会を見る目もなく、聞く耳も、みことばを悟る知恵もない。しかし、ヨハネの福音書15章のみことばどおり、ぶどう園の農夫である神様が、教会の中で私を引き止めてくださるだろう。私は聖書のみことばより、自分の目に見えるものを信じることに慣れているので、神に逆らう人生を送るしかない。しかし、神様は私を、神様ご自身に仕えるように、またイエスに頼って生きていけるようにすでに造ってくださった。古い人は十字架に釘付けられ、古いシム・ホンソプはすでに終わり、これからは新しいシム・ホンソプが生きるのだ。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙5:17)

 このみことばを忘れて古い人に騙されるときもあるが、神様のみことばがしきりに私を引き止めてくださることに感謝する。私は誰よりも弱くて、真理である神様のみことばではなく、嘘である私の考えに簡単に引かれてしまうので、神様がいつもみことばが流れる宣教学校に私を置いてくださったという気がする。この恵みが真に大きくて感謝である。酒とひどい絶望の中から私を救い出し、私に新しい日を開いておられる神様が、これから私が行く道も導いてくださるだろう。神様に感謝と栄光を捧げる。