信仰の手引き(日本語)

預言者エリシャとともがら

投稿者
goodnews2
投稿日
2024-04-12 12:33
閲覧数
38
ともがらは新しい礼拝堂を建てるところに預言者エリシャを連れていきました。自分自身の不足さを知っていたので神の人が必要でした。
神は私たちの父です。神が父として私たちになさりたいことができるように、神を信じ頼ってください。そうすればどんな問題にぶつかっても神が助ける祝福を受けられます。




川に斧の頭を落とす
列王記第二6章を見ると預言者エリシャとともがらの話が出てきます。ある時、一人のともがらが言います。
「ご覧のとおり、私たちがあなたと一緒に住んでいるこの場所は狭くなりました。ヨルダン川に行って大きな礼拝堂を新しく建てましょう」
「行きなさい」
エリシャの返事にともがらの一人がまた言いました。
「あなたもしもべたちと一緒に行ってください」
「では、私も行こう」
そうして、ともがらは預言者エリシャと一緒にヨルダン川に行きました。
ヨルダン川で木を切り倒していたところ、一人のともがらが叫びました。
「ああ、我が主。斧の頭を水の中に落としてしまいました。借り物なのにどうしましょう」
「どこに落としたのか」
「この前です」
預言者エリシャが一本の枝を切ってそこに投げ込みました。すると斧の頭が水の上に浮かびました。
「それを拾い上げなさい」
ともがらはエリシャが言ったとおり手を伸ばして斧の頭を取り上げました。


斧を落としたともがら
昔は木を切る時斧を使いました。鉄で作った斧の頭を木の柄にはめて使うと、斧の頭が重くて少しずつ揺れながら、柄から抜け落ちる場合が多かったです。経験の多い人たちは斧を打つ時「斧の頭が少しゆるくなったな。今度もう一度打てば抜けるだろう」と感じます。ところが仕事が下手な人は、斧の頭が柄から抜け落ちる程ゆるくなっても気づきません。おそらく斧を水に落としたともがらは仕事の経験がない人だったのでしょう。借りてきた斧を落としたのでとても困ったと思います。ところで幸いなことは、そこにエリシャ預言者が一緒に行ったことです。



預言者エリシャがいたので
預言者エリシャは年を取ったので、礼拝堂を建てる仕事はしなくてもいいです。「預言者様、私たちが行ってうまくやって来ます。預言者様はこちらで休んでいてください」と言って、ともがらだけで行くこともできました。しかし、ともがらは預言者エリシャに一緒に行ってもらいました。ともがらが預言者エリシャに「しもべたちと一緒に行ってください」と言ったのは、「神の人である預言者が私たちと一緒に行かないとだめです。私たちは不足な者なので、私たちを助けなければなりません」という意味です。彼らは日頃大変なことを経験し、その都度、預言者エリシャに助けてもらっていたので、預言者エリシャと一緒にしたいと願いました。
私たちが世の中で暮らしていると、全てをうまくやることはできません。また、私たちはいつ、どのような事故が起こるか、どんな問題に会うか分かりません。だから最も重要なのは、神に近づくことです。


イエスがここにいたなら
ある日、一人の兄弟が癌にかかって危篤だと連絡を受けました。病院に行ってみると兄弟は何の反応もせず静かにベッドに横になっていて、兄弟の妻と母は頭を下げて涙ばかり流していました。その時、私に一つの考えが浮かびました。
「今日、この病室に私ではなくイエスが来たらどんなことが起こるでしょう?」
もし、ここにイエスが来られたらイエスが兄弟に御言葉を伝えて、必ず生かしてくださるという心が生じました。そして、すぐに「私の中にイエスがおられる。それなら今日、イエスがこの兄弟を生かしてくれる」という心が生じました。そして、大きい声で兄弟を呼びました。
「おい、キムチュンファン兄弟、私を見て」
すると、兄弟が目を開けて私を見ました。
「医者はあなたがこれから2、3日しか生きられないと言うが、イエスがここに来たら、ただあなたが死ぬのを見て放って行くのか? あなたの妻と母が悲しむのを見て、見ぬふりをするだろうか? 私にもあなたにもイエスがおられる! そのイエスが働けばこの癌、何でもないよ」
そのように兄弟と話をして帰りました。そして間もなくして、兄弟から癌が完治して退院すると連絡を受けました。




神と心を共にする人
私はまだ斧が浮かぶのを見たことはありませんが、病人を癒したり、困難な問題を解決したり、神が不可能なことを成し遂げてくださる多くのことを経験しました。そのような神が私たちと共にいてくださると思うと、とても感謝です。
重要なのは、神と心を分かち合う人になることです。聖書を読んで神の心を発見し、神の御言葉と自分の考えが異なるとき、自分の考えを捨てて神の御言葉を信じて進めば、神の能力を経験することができます。