信仰の手引き(日本語)

明るい目を得た盲人

投稿者
goodnews2
投稿日
2023-08-25 00:59
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一人の盲人がいつも道端に座って物乞いをしていました。その日も盲人はイエスから小銭でももらうつもりでした。しかしイエスは盲人に、小銭ではなく明るく澄んだ目を与えられました。盲人が一生願っていたことでした。それまで誰も盲人に与えることができなかった、明るい目を得たのです。

文|パク・オクス牧師  翻訳|ナム・ジュヨン先生  絵|ユ・ジウン先生



小銭をもらうために物乞いをする盲人
ヨハネの福音書9章を見ると、盲人が道端に出て座っていました。道端に座っていれば人々に会えるし、その人々の中には小銭を与える人がいるためです。 盲人はお金をもらうために人々に物乞いをして、彼をかわいそうに思った誰かに小銭何枚かをもらいました。そのお金でお腹を満たすために、盲人は毎日道端に出なければなりませんでした。
いつもと変わらず、その日も盲人は道端に出て物乞いを始めました。
「お金をください。お腹がすいています」
盲人は通り過ぎていく人々に、自分を哀れんでくださいと懇願しました。しかし、その日は盲人にとって最高の日でした。イエスに出会ったためです。


心が低かったので
イエスが彼の前に立っていましたが、盲人はイエスを見ることができませんでした。イエスがつばきで泥を作って盲人の目に塗りました。そして言われました。
「行って、シロアムの池で洗いなさい。」
イエスの言葉を聞いて盲人の心に考えが上がりました。
「シロアムの池に行って洗ってくださいだと? 私の顔がそんなに汚いですか? それだとしても小銭一つでもくれませんか?」
しかしその考えも一瞬で、盲人はイエスの言葉に何も言いませんでした。
今まで盲人は物乞いをするために、謙遜で低い心で生きてきました。誰にでも助けを求めなければならないので、心を高めることができなかったのです。心に考えが上がってもその考えどおりにはできませんでした。小銭を得るためなら、できる限り人々の言うとおりにしなければならなかったのです。それで、今回もイエスが言われた言葉に何も言えませんでした。
盲人はイエスを見ることもできず、イエスが自分の目に何を塗ったかも見ることができませんでした。イエスがなぜそのようにしたかもわかりませんでした。しかし「私の目に何を塗っていますか?」「私がなぜシロアムの池に行かなければなりませんか?」と言いませんでした。ただ、行ってシロアムの池で洗いなさいと言ったイエスの御言葉に従うことに しました。


私はこんな顔をしているんだ
盲人は「この方の言うとおりに、とりあえずシロアムに行こう」と考えて、 人々に尋ねながらシロアムの池に行きました。シロアムの池に着いて、水に向かって注意深く下りて行きました。そして、両手で池の水をすくって顔を洗い始めました。すると、かすかに物が見えてきました。生まれて初めて、池の水に映っている自分の顔を見ました。
「私はこんな顔をしているんだ!」
周りにいる人達を見て、木を見て、目を上げて空を見ました。
「人々はあんな姿しているんだ、木はあのような形で、空はあんな感じなんだ!」
盲人は目が見えるようになったのです。


御言葉に従う時に訪れる恵み
この世の多くの人がイエスの御言葉を聞きます。イエスがシロアムの池に行って洗いなさいとおっしゃるなら、自分の考えがどうであれそのまま受け入れて、御言葉どおり行動に移さなければなりません。しかし、イエスの御言葉を聞いた人の中で、そのようにする人は多くありません。
盲人の心にイエスの御言葉が入ってきて、御言葉以外の他の考えはありませんでした。しかし、私たちの心にはイエスの御言葉と違う多くの考えが定着しています。それらの考えがイエスの御言葉どおりに従えなくします。
信仰とはイエスを信じることです。イエスが何を話されても、そのまま受け入れることです。盲人はイエスの御言葉を心に受け入れて、そのまま従い、目が見える恵みを受けました。




私たちも盲人と同じ心で
イエスの御言葉の前で、私は盲人とはとても違う自分を発見します。どうしてでしょう?私たちには自分の考えがいっぱい生きているから、イエスの御言葉に勝ってしまいます。それで、イエスの御言葉が私たちを導くのではなく、私たちの考えに引っ張られます。盲人はそうではありませんでした。彼はイエスが誰なのかも知らず、なぜシロアムの池に行って洗うのかも知りませんでしたが、ただ、イエスの言葉に従いました。「シロアムの池に行って洗えと? そんな! 今は物乞いをしなければ」盲人の心にもこのような考えが生じたはずです。しかし、彼の心に入ってきたイエスの御言葉が彼のすべでの考えに勝ってくれました。
私たちは物乞いではないし、物乞いをする必要もありません。
それが盲人との違いで、私たちの心を自分の考えで満たしました。それで、イエスの言葉ではなく、自分の考えが私たちを引っ張ってきました。そのように生きる中で、イエスの御言葉が少しずつ私たちの考えに勝って私たちの心を導くとき、私たちも盲人のように神の恵みを受けて、変化を経験することができます。